Scene12 暗黙の了解
❶
京都駅のホームは、姫路駅よりも一段と冷たく感じられる。
ノースフェイスのジャケットを羽織ったとき、冷凍庫のような空気も一緒にまとった。
「先生は、寒くないの?」
改札に向けて歩く途中、多くの人たちがうごめく合間を縫いながら、真砂子に聞く。
「寒いといえば寒いですけど、まあ、大丈夫ですよ」
彼女は軽快に答えたものの、その後、重い口調で付け加える。
「先生っていう呼び方も、なんか、
「いや、先生は先生だよ」
「橋田さんには、もっと別の呼び方をしていただきたいです」
「たとえば?」
彼女はやや歩調を緩めてから「呼び捨てとかでいいです」と言ってくる。それはさすがに気が引けると答えると、彼女は作り笑いを浮かべて、歩く速度を元に戻す。
改札を抜けて京都市街の明るみにさらされた時、真砂子は嵐山に行きたいと言ってきた。特に深い理由はない、ただ、これまでなかなか行きたくてもいけなかったので、ぜひこの機会に訪れたい、ということだった。
それで僕たちは駅前のターミナルからバスに乗ることにした。
平日にもかかわらずバスはぎゅうぎゅうで、車内では両足をしっかり踏ん張って立つことになった。京都弁でおしゃべりに興じている乗客たちに揉まれていると、そういえばここに出張することは意外にも少なかったことに気づく。まして嵐山に行くとなると、たぶん、大学生の時に仲間とドライブした時まで遡らなければならない。壊れかけた中古車で、名古屋から一般道を通って京都に入った。あまり印象に残っていないけど。
「よく考えたら、四条から電車を使えばよかったですね」
真砂子は渋滞のバスの中で腕時計に目を落とす。僕はそんな彼女を漠然と眺める。
そういえば、2人で水族館に行ったのもこの時期だった。島根のバスは十分に空席があって、僕たちは通路を隔てて隣同士に座った。
記憶がどんどんつながっていく。
あの時真砂子は、バスの中で終始無言だった。べつに緊張したふうでもない。落ち着いた様子で、窓の外を眺めながら、僕が話しかけるとこっちを見た。
あの日の真砂子を回想しながら、今、僕のそばに立っている女性を見下ろすと、時間の感覚が水飴のように伸びたり縮んだりする錯覚を感じる。
すると目の前の風景が狂いはじめる。バスの中の混雑は風と化し、乗客たちは林になる。そして、また眩暈が襲ってくる。
風の音も土の匂いも、すぐそばまで迫っている。
不思議な香りも鼻の先に漂っている。
そして例によって声が聞こえる。
あな……
君はいったい誰なんだ、と心の声を振り絞る。
すると、女は、初めて語りかけてくる。
わたくしが誰かだなんて、言うまでもございません。なぜなら、あなたさまは分かってらっしゃるのですから。
でも、どうして君は何度も僕の前に現れるのだろう?
僕たちはもう2度と会うことがないということは、暗黙の了解のはずだ。
女は何も言わなくなる。
❷
「あぁ」
声は耳元で聞こえる。
「ああ、もう」
暴風のように乗客たちがひしめき合う中で、真砂子が心細げにたたずんでいる。
「どうした?」
僕は聞く。
「時間がもったいない」
真砂子は窓の外に流れる京都の町にいささか恨めしそうな視線を送る。
「ところで、さっき、何か言った?」
僕が聞くと、彼女はこっちを見る。2人の顔はぐっと近づいている。油断すればキスしてしまいそうだ。
「さっきから何度もため息をついてますけど、それ以外は何も言ってないですよ。空耳じゃないですか?」
「それならいいんだ」
真砂子はおかしそうな顔で、首をかしげる。
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