Scene10 端役たちの声

「それにしても、君は『源氏物語』に詳しいね。国語の先生だったっけ?」

 自らのダジャレのエラーによって微妙な空気になってしまったために、話をまともな方向へと軌道修正せざるをえない。真砂子は苦笑いを残している。

「いちおう専門は数学ということになっています。でも、塾の講師をやってると、結局、全教科の授業を担当することになるんです」

「ということは、今の話は独学で得た知識か」

「まあ、そんなとこですかね」

 彼女は控えめな答え方をし、それからまた、話を続ける。

「紫式部は正確な気象データに基づいて『源氏物語』を書いたっていうのを読んだことがあります。明石は昔から晴れが多かったというのは事実みたいですよ」

 彼女はスマホをバッグにしまい、瀬戸内沿岸に広がる明石の街をいとおしげに見つめる。

「須磨と明石の場面は、『源氏物語』の中でも、特に生き生きと描かれているような気がします。紫式部はこの地に思い入れがあったのかもしれません。でも、彼女は実際に訪れたわけじゃなかったようですけど」

 明子の瞳に静かな力が加わる。

「姫路に越して間もない頃、1人で明石に行ったことがあるんです。『源氏物語』にの場面が思い浮かんできて、すごく素敵な旅でした」

 1人で……

 僕にはその言葉だけが切り取られた1枚の絵画のように、くっきりと耳に残った。


❷ 

「『源氏物語』の魅力を一言でいうと?」

 彼女の横顔に向けて問う。

「端役の存在ですね」

 明子は即答する。

「端役?」

「危険な恋の手引きをしたり、誰からも気づかれずに苦悩したり、源氏物語はむしろ主人公よりも端役の方がリアルに描かれています。中には名前すら与えられない者もいるんです」

 真砂子は寂しそうに笑う。

「私には声にならない人の声が聞こえてくるんです。千年も昔から。そこがたまらなく切ないんです」 

 憂いを帯びた真砂子の面持ちに、返す言葉が見つからない。

 声にならない人の声……

 高校時代、僕が放置してしまった山野真砂子の声を今聞くかのようだ。


 逃げるように窓の外に目を遣る。建物の間から瀬戸内海が広がる。ここの風景は、島根とはまた少し違った趣がある。

「山陰」という地名の影響もあって、島根にはどこか重苦しいイメージがつきまといがちだ。高校生の頃には全く意識しなかったが、大学に出てから、友達との会話の中で、世間ではそう捉えられていることを知った。だが、実際の島根は、必ずしもそうではない。空はどこまでも広く、海も澄んでいる。

 もちろん瀬戸内の海は穏やかだ。だが島根の海は驚くほどに青く、しかもやさしい。故郷の憧憬に浸っていると、窓の外に広がる瀬戸内海に島根の海がオーバーラップされる。それぞれの海の青色は頭の中で混ざり合い、より深い色彩となって僕の瞳の奥に広がる。

 うっとりして肩の力を抜いた途端、またも例の眩暈めまいが襲ってくる。

 不思議な香りの向こうから、声にならぬ声が聞こえる。それは、明石海岸に寄せる波の音と絡み合いながら、はるか遠くから僕に向かってささやきかけてくる。


 あな……

 

 瞳を閉じて眼球を押さえると、たちまち寒気に襲われる。深い洞窟に入っているようだ。


 あな……


 人差し指で両耳の中をほじくる。だが、問題は僕の鼓膜にあるのではなさそうだ。声は徐々に近づいてくる。


 あな……


「あってみたいな」

 声はすぐ隣にまで迫っている。

「紫式部って、いったい、どんな女性だったんだろう。会って話をしてみたいです」

 真砂子は窓に映る彼女自身に向けてつぶやいている。僕は呼吸が速くなっているのを自覚する。

「まもなく新神戸駅に到着します」というアナウンスが流れる。この辺りは駅と駅の間隔が短い。

 僕は頭を軽く振ってみる。真砂子もそんな僕を気にしているようだ。


「専門が数学っていうことは、大学は理系に進んだんだ?」

 話題を元に戻す。

「理系と言えば理系なんですけど、家政学部でした。っていうか、私たちが高校生の頃って、今みたいにきっちりと進路指導してくれなかったと思いません?」

 真砂子の口から「私たちが高校生の頃」という言葉を聞いたとき、心象風景の中の島根の海で、小さな飛沫しぶきが上がる。

 北浦高校の教室からは、いつも海が一望できた。

「あの頃って、けっこう憧れで大学を決めてたんですよ。私も、ただ漠然と、お茶の水女子大を目指してたんです。現実にはかなりランクを落として別の大学に入ったんですけど、学部だけはお茶の水の憧れで、家政学部に入ったっていう、ただそれだけなんです。だから、別に好きで数学を専攻したわけでもないんですね」

 そう言われると、僕にも心当たりはある。

 そもそも僕は受験勉強よりもラグビーに夢中で、真剣に大学を選びはじめたのは、センター試験が終わってからだった。とりあえず名の知れた大学に入っておけばどうにかなるというくらいの認識しかなかった。

「あの頃と比べると、今は少子化だし、大学も増えたから、じっくりと進路を選べるんですよ。夕薫ちゃんも、そういう意味では幸せと言えば幸せなのかな」

 真砂子の口から娘の名前を聞き、夢から覚めたような気分になる。あと少しで肘と肘とが触れそうになっていた彼女との間隔が少し開く。


 新幹線は六甲山のトンネルに潜り込む。暗がりの中で減速を始め、そのまま新神戸に着く。明石と比べると、たしかに神戸の空には少し雲がかかっているようだ。

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