Scene9 海女の涙

「ひかり」は西明石駅で停止する。

 その間、僕たちの会話も途絶える。すると、隣に真砂子がいることがより強く意識される。先月まで夕薫を熱心に指導してくれた山野真砂子先生であり、同時に僕が高校3年生の時に心のこもった手紙をくれた山野真砂子でもある。そんな彼女が、すぐ手に届くところにいる。なんだか、妙な感じでもある。

 大きく息を吸い込むと、突然こめかみがキリキリと痛みだす。慌てて両耳の辺りを押さえる。


 覚えのある香りが立ち上がってくる。

 人のような、花のような香りだ。

 風の音が鼓膜を震わせ、土の匂いが鼻腔に漂う。


 目の前にはひとすじの道が伸びている。周りを緑に囲まれた細い道だ。僕はその道を歩いている。いつも夢に出てくる光景だ。

 辺りは深い霧に包まれ、ほのかな明かりが行く手を心許なく照らし出している。

 声が聞こえる。白い着物を着た女がいるのだ。少女のささやきのようであるし、悲痛なうめきのようでもある。ずっと昔から、少なくとも僕が生まれる遙か前から僕を呼び続けているようでもある。


 そのうち、こめかみの痛みにも慣れてくる。

 声はすぐ近くで聞こえるようになる。

 女の声は、徐々に近付いてくる。


 あな……

 

「うわぁ」

 ふっと鼓膜が軽くなる。

 隣には真砂子がいる。

「さすが、明石ですね。空がすっごく青いです」

 彼女は窓に顔を近づけて、少女のささやきのような声をあげる。いつのまにか「ひかり」はスマートに再起動している。

「明石って、文字通り明るい町だと思いません?」

 口の中が不気味に粘ついている。頭を振ってみると、こめかみの痺れはだいぶ軽くなっていることに気づく。

 真砂子は僕の顔を覗き込む。僕が何も返さないからだ。彼女は質問を変えてくる。

「橋田さん、『源氏物語』とか、読まれたことあります?」

 残念ながらないね、と答える。

「若い頃の光源氏が、都から須磨に流れるっていう場面があるんです」

「須磨って、神戸の須磨のこと?」

「そうです。海浜公園があるところです」

 真砂子は安心したふうに、再び窓の外に目を向ける。

「須磨って、平安時代には都で失脚した貴族たちが流される場所だったんです。それが、在原行平ありはらのゆきひらが流罪にあってからは、ロマンティックな色合いも加えられたようです。行平は、『伊勢物語』の主人公、在原業平ありわらのなりひらのお兄さんで、恋多き男性として有名でした。都に残してきた愛しい女性のことを、須磨から思い続けるんです」

 真砂子はハンドバッグからスマホを取り出し、そこに表示された和歌を2回読み上げる。


わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩もしほたれつつ わぶと答へよ


「どういう意味なんだい?」

「もし誰かに、行平はどこに消えたのかと問われたら、愛しい人を思いながら涙を流していると答えておくれ。そんな感じですかね。藻塩っていうのは、浜辺に打ち上げた海藻を焼いて塩を作ることなんですけど、それは、海女あまの仕事だったんです。だから、当時の人々は、藻塩っていうだけで女性と涙を連想したんです」

「なるほど、なんとなくロマンティックな感じもするね」

「そういう風潮も手伝ってか、『源氏物語』に描かれる須磨は、どことなくどんよりとしているんです。しまいには暴風雨にも見舞われて、雷が落ちて家が火事になったりして。それが、場面が明石に変わった途端、急に雰囲気が変わるんです」

「つまり、明るくなるわけだ」

「須磨が暗かった分、よけいに明るく感じられます。神のお告げを聞いた明石入道あかしのにゅうどうっていう一途な老人が、源氏を舟に乗せて須磨から連れ出すんです。舟は神風に乗って、すんなりと明石の浦に漂着します。入道は源氏を自分の所有する屋敷に住まわせるんですが、それが広大でじつに風流なんです。その屋敷で2人は一緒に琴を弾いたりします。光源氏は、明石の君という運命的な女性と出会うんです」

「なるほど。明石は、光源氏にとっては転機てんきの場所だったんだ。だから天気てんきもいい」

 真砂子は産業用ロボットのような動きで僕の方を向き、「念のために聞きますが、今のはダジャレじゃないですよね?」と尋ねてくる。

「いや、だから明石はテンキの場所なのかなって」

 僕たちの間にしばしの沈黙が流れる。

 何とも絡みづらい沈黙だ。 

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