Scene7 恋心
帰宅後、真砂子と約束を交わすことができた勢いで、夕薫を外食に誘ってみる。だが、そんな気分じゃないとあっさり断られる。
それで僕は再びマンションの外に出て、スーパーマーケットに足を運び、できるだけ上等なパック寿司を買い、持って帰って2人で食べることにする。
「転勤、どうなったん?」
夕薫は寿司に見向きもせず、いきなり本題に切り込む。
「仕事だからな、仕方ないんだよ」
チューブに残った歯磨き粉をどうにかひねり出すように言葉を発すると、夕薫は灰色のため息を吐く。
「今日、中学の先生に呼び出されて、熊本の高校の話をいきなりされた。先生、すっごいやる気やった。なんか、へんなパンフレット見せられて、いろいろと説明されたけど、うちは姫路に残るよ。友だちもおるし、この町に慣れとるからね」
まさかお前だけ残って1人暮らしするわけにもいかないだろう、と思わず熱くなりかけたが、寸前で思いとどまる。この調子なら、本当に1人暮らしをさせてくれと言いかねない。
言葉を我慢した代わりに、僕は黒煙のようなため息を吐き、大トロのにぎり寿司を口に入れる。なんだか、本当に炭の味がする。
「父親なら、もっと娘のことを本気で考えてくれてもええんやない? まだ、返事しとらんのやろ? 姫路に残る可能性は、ゼロやないんやろ?」
たぶんゼロだ。だが、そう言い切る強さが足りない。それでも言うべきことだけは言っておかなければならない。期待を持たせるわけにはいかない。
「たぶん、転勤は変えられない、と思う」
「たぶんってことは、100パーセントじゃないってことやろ? せやから、何とかしてくれって言うとんやん」
夕薫は法廷で潔白を主張するかのように訴えかけてきた後、お話にならない、とでもいわんばかりの表情で自分の部屋に戻っていく。雅びなデザインが施された寿司のパックの中には手つかずのネタが整然と並んだままだ。
ため息を吐き出した瞬間、また頭の中がぐらぐらと揺れる。さっきの眩暈の余波のようでもある。その揺れの中に、僕は山野真砂子を探す。彼女の思いやりがいとおしい。しばらくして眩暈が収まると、ぬくもりが残っている。島根で過ごした懐かしい時間が心を温める。
高校時代の、まだ物事を深く考えずに済んだ未熟さに憧れる。あの頃に戻れたら、どんなに楽だろう。もし真砂子がそばにいてくれたら……
いかんいかん、そんなことを思ってはいけない。彼女の人生はこれからだ。自分の人生に引きずり込んではいけないし、そもそも彼女は、もはや高校時代の彼女ではないのだ。
冷蔵庫から酎ハイを出し、氷を入れたグラスに注ぐ。テレビをつけるとラグビーのゲームをやっている。結局、ノーサイドのホイッスルが鳴るまで、漠然と観戦することになる。
気がつけば、ストロングタイプの酎ハイを3本も空けている。頭の中のスクリーンには、三つ編みをしてセーラー服を着た真砂子の姿が、古い映写機でずっと映し出されている。
どうやら真砂子に恋をしたようだ。彼女を思うと、喜びと切なさが交互に顔を出す。まさか自分にこんな感情が残っていたとは。
あと1週間すれば彼女と会える。もちろん、そのことによって夕薫の問題が完全に解決するとは思えない。
だが、きっと何かが先に進む。
いや、もしかすると、過去に戻るのかもしれない。
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