Scene6 キャンプファイアーの残り火

「え―――っ」

 山野真砂子は目を全開にしたまま声を上げ、両手を口元にあてがった。

「この世に、そんなことが、あっていいんですかね」

 彼女はろう人形のように固まったまま、まぶたに涙をためる。

「僕の方は、当然腹をくくらなきゃならないんだけど、夕薫の方がね、どうしても」

「そりゃ、そうでしょう。だって、あれほど頑張ったんだから」

 彼女は力なく言う。

 それからしばらく、塾の個別面談ルームで、僕たちは同じ沈黙の空気を吸うことになる。プラスチックの簡素なテーブルとパイプチェアのセット、参考書がぎっしり詰まった本棚、きちんと積み上げられた段ボール箱、キャビネットに並べられたポータブルCDラジカセ……

 このいかにも事務的な部屋で、僕たちは再会したのだ。部屋の光景すべてがあの日のままなのに、今この瞬間だけは、まるで切り取られたフィクションのように感じられる。


「橋田さん」

 彼女はテーブルに目を落として切り出す。

「もしよろしければですが、お時間をいただけませんか?」

「時間?」

「ご転勤前で、お忙しいですか?」

「いや、まだ多少は余裕があるけど」

 彼女は肩の力をふっと抜く。

「私が夕薫ちゃんに直接話をしても、あまり事態は変わらないと思うんです。当たり前ですけど、橋田さんが夕薫ちゃんにどう対応するかってことなんですよね。もう、転勤が避けられないのなら、おそらく、説得、ということになるんでしょうけど」

「いや、そうなんだよね。説得するしかないんだ」

「なので、差し出がましいかもしれませんけど、私なりにちょっと調べたり、考えたりした上で、改めて橋田さんとお話をさせていただきたいんです。それに」

 彼女は視線を僕の胸元辺りにまで滑らせる。

「橋田さんには、他にもお話ししたいことがあるんです。もちろん、ご迷惑にはならないようにします。ただ、いろいろと対話をする中で、夕薫ちゃんについてのことも見えてくるんじゃないかと思うんです。それって、進路指導と同じやりかたです」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、僕の目を見る。僕は腰の位置を少しずらす。

「僕の方は構わないですよ。むしろ、それはありがたいことだ。ただ、どうすればいいですかね?」

 真砂子はさっきよりも緊張した面持ちで、ささやくように提案してくる。

「ちょっと外に出て落ち着いて話をするとか、やっぱり難しいですか?」

「外に、ですか?」

「あ、いや、どうしてもっていうわけじゃないんです。ただ、この塾の中はゆっくり落ち着いて話がしづらいですし、姫路の街中で会うというのもなんとなく気が引けるんです。だから、少し遠いところに」

「たとえば、どこへ?」

 彼女は唇の両側をきりっと結んで考えた末に、遠慮がちに答える。

「たとえばですけど、京都、とか」


 あれっ?


 僕は声を出す。

 いや、実際にそんな声を出したわけではない。

 心の中から、あれっ、という音がわき上がってきて、僕はそれを聞いたにすぎない。


 京都、と聞いたとたん、たちまち頭が重くなった。ひどい2日酔いの朝みたいだ。いったい、急にどうしたというのだろう? 小鼻を指でつかみ、目を閉じて軽く頭を振ってみる。


 目の前には竹林が続いている。

 どうやらいつもの夢の中に紛れ込んでしまったらしい。


 遠くから風の音が近付いてくる。それも、研ぎ澄まされた、極めて純度の高い風の音だ。

 土の匂いもする。少し湿り気のある土の匂いが、風に舞っている。

 風と土の隙間から、不思議な香りが顔を覗かせる。

 一体何の匂いだろう? 

 人の香りのようでもあるし、花の香りのようでもある。心が惹きつけられる魅力的な香りだ。

 香りの向こうからまた何やら声が聞こえてくる。 声というよりは、誰かの息づかいのようでもある。いつも夢に出てくる白い着物を着た女が僕を見ている。

 だが、その女が誰なのかは、分からない。

 答えを求めようとすればするほど、真実は遠ざかってゆく。


「橋田さん?」

 ふと顔を上げると、目の前には心配そうに僕を覗き込む女の顔がある。どこからどう見ても、山野真砂子だ。

「無理ならいいんですよ。あくまで、私の考えなんで」

「いいや、無理じゃない。ただ、ちょっと眩暈めまいがしただけだ。最近何かと忙しかったから」

「大丈夫ですか?」

「もちろん、大丈夫だよ」

 とはいうものの、いつもの痙攣けいれんがこめかみを押さえつけている。不思議な香りも鼻の奥に残っている。

「京都に行くっていう話だったよね」

 真砂子は僕を見たまま首を縦に振る。大胆な提案ではあるが、それが突拍子のないことには感じられない。僕の脳を構成する部品の1つがショートしてしまったのかもしれない。彼女がどんなことを考えていようとも、夕薫を説得することにつながれば、それが一番だろうという結論に達する。

「タイミングが合えばいいんだけど」

 そう返すと、彼女はふわっと笑顔になり、その後で、自らを戒めるように緊張した表情に戻る。

「最初に私の都合から言うのも恐縮ですが、もし可能であれば、平日の方が都合がいいのですが」

 実は僕もその方がいい。転勤を前にして、これからは新しい業務は入らないだろうから有給休暇が使えるし、それに、休日は夕薫が家にいる可能性もあるので、かえって外出しにくい。 

 それで僕たちは、お互いのダイアリーを見合わせながら、3月2日の火曜日に姫路駅の新幹線口で待ち合わせる約束を交わした。

 

 外はすっかり闇に包まれている。どこからともなく、肉か魚の焼ける匂いも漂ってくる。

 俺は一体何をしにこの塾に来たんだっけ?

 思わず歩を緩めて考える。こめかみの痙攣は、依然としてキャンプファイアーの残り火のようにくすぶっている。

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