Scene5 辞令も突然の稲妻のように

 朝、職場のデスクでいつものようにパソコンに向かってメールを確認していると、課長に右肩を叩かれ、別室に来てほしい、と告げられた。

 課長は、ソファに僕を座らせた後で自分も腰を下ろし、テーブルに置いた辞令通知の紙に書かれている文言を自動音声のようにそのまま読み上げた。

「橋田くん、4月1日付けで、君を熊本事業所の次世代事業開発担当室のに任命する」

 僕は中途半端に口を開けたまま、課長の目の奥を凝視する。

「つまりは昇進だ。もちろん、大丈夫だね?」

 課長、それって、一足早いエイプリル・フールっていうことですよね? お願いです、そう言ってください、決して怒ったりしませんから!

 心の中でそう叫ぶ。口はからっからに乾いている。


 この課長にはずいぶんと助けられてきた。

 今年度着任してきたばかりなのに、僕の家庭を常に気に留めてくれているし、帰宅時間だって配慮してくれる。

 同僚たちからはあまり評判がよくない。いささか杓子定規なところがあるし、決断にも時間がかかる。だが僕は、この人にはきわめて人間的な一面があると信用を寄せている。

「い、いや、先日も申したとおり、娘が先週高校入試に合格したばかりで、しかも、娘が高校を卒業するまでは、できれば姫路にいたいと人事部には留任願を提出していたんですが」

 明らかに震える声で打ち明けると、課長は唇をぎゅっと結び、目を細める。

「もちろん、君のことは十分に理解しとるよ。でも、君はこの事業所が長いし、なにより、評価が高い。君みたいな人材を同じ事業所にとどめておくのはどうかという判断を、人事部の誰もがしている」

 僕は依然として口を開けたまま、板チョコのように平板なソファの硬さを意識する。室内は暖房が効いておらず、冷凍庫のように冷たい。

「それに、熊本ではAI開発の部門を大きくするというプロダクトを進めることにしているだろ。まさに、今、君が作り込んでいる業務じゃないか。会社としても、そのまま君に任せるというのが自然な流れというものだ。しかも、次長という役が付く。期待されての人事だ。君のキャリアにとっても、いい話だと思うぞ」

「おっしゃることはものすごくよく分かりますし、その思いはたいへんうれしいんですけど、なんといっても娘が。合格発表が終わったばかりで、タイミングが……」

 脇の下に嫌な汗をかいている。言葉もぶつ切りになって出てくる。

「まあまあ、そう言うな。プライベートの事情もよく分かるけど、この時期の転勤は我々の世界じゃ当たり前だ。私も子供が4人おるが、小中学校の時には1年ごとに転勤したこともあったし、マレーシアに一家転住もしたことだってあるんだ。たしかに大変だったが、今思えば、視野が広がったぞ。部下を海外に行かせたこともあったけど、転勤で子供が学校に行けなくなったっていう話は聞いたことがないね」

 ここへ来ての杓子定規な言いぶりが憎い。

「学校の方でも受け皿があるはずだろうよ。娘さんも優秀という話だから、熊本に行っても高校に入れないということはありえんだろう。もし、どうしても困るようであれば、早めに教えてくれれば、何らかの手は打つよ。もちろん、転勤にかかる手当も十分に保障するし」

 課長よりもさらに上から降りてきている業務命令の前に、何も返せない。しかも次長とは、ずいぶんな昇進でもある。自分が組織の一員に過ぎないという事実を痛感する。


 とりあえず中学校に電話してみる。

 担任の教員は、ソプラノ歌手のような声を上げて驚きはしたものの、公立高校の受験となると時期的に難しいだろうが、私立ならまず対応してくれるはずだと、急に冷静になった。課長の言ったことと見事なハモりを聞かせてくれた。

 しかもこの担任はよりによって熊本出身らしく、あそこは元々教育に熱心な土地柄で、レベルの高い私立も多い、夕薫はすでに兵庫の難関高校の入試を突破しているので、その実績も有力な武器になるだろう、と熱弁をふるった。

 話せば話すほど、担任は上機嫌になっていく。さっそく校長に報告して、手続きをはじめますからまかせてください、と力強い満額回答までいただく。自分もこの先生みたいに迷いなく判断できればどれほどいいだろうとため息が出る。


「無理に決まっとるやろ、そんなん」

 夕薫は目を血走らせて、僕の予測を遙かに超えるトーンで激情してくる。

「絶対ありえへん、うちは絶対行かんで」

 夕薫はこれまで見たことがないくらいに取り乱し、テーブルを思いっきりしばく。その後でスマホを握りしめて部屋に直行した。そしてひたすら泣き続けた。僕の寝室まで鼻をすする音が響いてきた。時折幽霊のような声まで上げた。まるで針のむしろに横たわっているようだ。まさか、最近見るようになった夢はこのことを暗示していたのかと考えたりもした。

 こんな時こそ、秋江がいてくれればどれほど助かるだろうと思う。そんな反実仮想の中に自らを逃避させると、どうしても山野真砂子の存在がよぎる。

 僕は照明をつけ、仕事用のトートバッグから財布を取り出し、その中に忍ばせていた彼女の名刺を抜き取る。名前の横に添えられた頼もしい表情がこっちを見ている。

 もはや自分には彼女しかいない。

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