Scene3 洗練された息づかい

 山野真砂子から電話がかかってきたのは、保護者面談が終わってから1週間後のことだった。

 彼女は僕の仕事に気遣って夜の8時前に連絡してきたが、そのとき僕はまだ職場にいた。

「申し訳ございません、お忙しい時に」

 彼女は開口一番そう言ったが、僕の方は不都合なことはない。残業中に電話がかかってくることなどしょっちゅうだ。

「いえ、じつは、夕薫さん、高校の説明会に参加しないかなと思って」

「説明会、ですか?」

「はい、そうなんです。勉強のモチベーションを上げるためにも、この夏休みのうちにいくつか高校を回ってみられてはどうかと思いまして。事前予約も必要ありませんし、本人も行きたいと言ってますので」

 スマホからは、彼女の声がクリアに飛び込んでくる。その微妙な息づかいまで伝わってくる。

「わかりました。仕事の関係でどうなるか分かりませんが、できるだけ参加させる方向で」

 僕がそう答える途中で、彼女はこう言ってくる。

「あ、でも、保護者の同伴は求められていませんから、いざとなれば本人だけで行くこともできますし、もしよければ、私が引率してもいいですよ」

 それはさすがに恐縮だと言うと、彼女は笑い声を受話器に吹きかけて応える。

「この前の面談でも言いましたけど、夕薫さんは有望なんです。手塩にかけて育てたいんです」

 熱意に甘えて良いのかどうか思案していると、彼女は話題を素早く切り替える。

「夕薫ちゃん、今もがんばっていますよ。私の授業が終わった後、自習室でお友達と勉強しています。今日はいつもよりも遅くなりますけど、大丈夫ですか?」

「もちろん大丈夫です。よろしくお願いします」

「わかりました。もう外は暗いので、早めに帰るようには言いますね。それと、説明会も、私にまかせてもらえればいいんですよ」

 山野真砂子は透き通った声を僕のスマホに残し、静かに電話を切る。


 結局夕薫は、夏休みに2つの高校の説明会に参加した。そのうち第1希望の姫路学院高校には、山野真砂子が引率してくれた。それを機に、夕薫のモチベーションは目に見えて高まり、僕に進路の話をすることも増えた。すべてが山野真砂子の言うとおりだった。

「将来はカウンセラーになりたいって言うたら、先生が、その目標に向かってこつこつと努力しとったら、絶対チャンスが広がるから、今は目の前のことをしっかりがんばりなさいって、励ましてくれたんよ」

 夕薫はダイニングテーブルの椅子に座り、得意げに話す。

「それって、山野先生?」

 思わず聞くと、夕薫は、うん、と軽快に応える。

「あの先生は、ええ先生やでぇ。みんなからも人気あるしね」

「ところで、山野先生って、独身なのか?」

 夕薫はスマホの画面から目を離してこっちを向く。

「独身やな。けっこう毎日、みんなからいじられてる。先生、まだ結婚せえへんのかって」

「なるほど」

 それにしても、どうしてそんなことを聞いたんだろうと、後になって恥ずかしくもなる。

「じつはね、山野先生は、父さんの高校時代の後輩なんだ」

 夕薫はカメレオンのように目を大きく開けて悲鳴のように叫ぶ。

「うそやろー、何で?」

「たまたまなんだ」

「それって、すごくない? 山野先生も島根の人なん?」

「そうだよ。たしか彼女は北浦高校からだいぶ離れた所から通っていたと思う。実家は山間やまあいの温泉地だったかな。今はもう温泉が出なくなって閉鎖したっていう噂をいつかどこかで聞いたことがあるけど、そんな所の人だよ」

「へえ~。信じられん。だって、あの先生、すごいおしゃれやし、まさかそんな田舎者にはとても見えん」

 僕は新聞を畳んでテーブルに置き、麦茶を飲む。

「田舎者がきちんとした格好をすると、すごくおしゃれになるもんなんだよ」

 僕が反論すると、夕薫はくたびれたルームウエアを着た僕の姿をさげすむような視線で上から下まで眺めながら、「きちんとした格好をすればね」と吐き捨て、鼻で笑う。

「それより、高校生の時、山野先生と話をしたことあった?」

「あったよ。ほとんど覚えてないけどね」

「山野先生は父さんのこと覚えてるわけ?」

「そりゃ覚えとるよ。先生の方から声をかけてきたんだ。父さんは、最初は気づかなかったんだ」

「どんな高校生やった、山野先生?」

 夕薫は相撲の立ち会いのように前のめりになって質問してくる。この子がこんなに夢中になって話すのも、珍しいことだ。

「正直、あまり目立たなかったかな。少なくとも、姫路で塾の講師になって中学生の前に立つようなタイプじゃなかったように思う」

「へえ~」

 夕薫は口をラグビーボールの形に開ける。

「一生懸命勉強しとったらチャンスが広がるっていうアドバイスは、たぶん山野先生の経験からだと思うよ。あの人は目立たなくてもひたむきなところがあったから、少しずつ実力をつけて、人脈も増えていったんだろう。だから夕薫も、まだまだ先は長いんだから、こつこつと前に進んでいきなさいってことを伝えたかったんじゃないかな」

 実感を込めて語ったつもりだったが、僕が熱くなるほどに夕薫の表情は間の抜けたようになり、「はあい」と返事をした後、テーブルに置いていたスマホの画面をなぞりはじめる。


❸ 

 寝室の明かりを落とし、ベッドに横たわってから、山野真砂子にお礼のメッセージを送る。

 先生のおかげで夕薫はすっかりやる気になっていること、それからこれまでほとんどなかった親子の会話が増えてきていること・・・・・・

 しばらくして返信が来る。

 そこにはとても丁重な言葉が並べられている。絵文字も顔文字も使われていない、シンプルな、それでいて誠意のこもった文面だ。

 彼女は、経験を重ねる中で、社会人として、それから人間として、洗練されている。そのことをメールから感じ取った瞬間、僕の心も温かくなってきていることに気づく。

 俺もがんばろう。心の底からそう思う。

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