Scene2 別れも突然の稲妻のように

 夕薫は僕の1人娘だ。

 仕事の関係上、帰宅が夜遅くなることも多いけど、今では学校から帰って自分で夕食を作り、だいたいの家事をこなしてくれる。これまでなかなか勉強をしなかったのに、中学3年生になってからは別人のように机に向かうようになった。

「とにかく、負けたぁない」

 最近は口癖のようにそう言う。

 もともとこの子は競争を好む方ではなかった。部活もコンピュータ部に入り、地道に検定試験を目指すようなタイプの中学生だったのに、この変貌ぶりだ。

 だが夕薫は、僕にあまり詳しい話をしてこない。小学生の頃まではよく喋る子だった。それが、中学生になってからは、目に見えて口数が減った。体調不良の仔犬がミルクを飲まなくなるように、コミュニケーションの扉を閉ざしてしまった。


 それには間違いなく、秋江の蒸発が関係している。


 僕と秋江は大学時代から付き合っていて、夕薫を懐妊したということもあり、卒業と同時に入籍した。それゆえ、僕の就職と子育てがちょうど重なり、秋江には多忙な毎日を送らせてしまったのはたしかだ。結局、ちゃんとした結婚式も挙げずじまいだった。

 それでも秋江は僕のことを理解し、ついてきてくれるものとばかり信じ込んでいた。いつかゆとりができれば、僕たちは安穏とした生活を送り、その時にしっかりと恩返しをすればいいと勝手に人生設計していた。

 ところが、秋江は夕薫が小学5年生の夏に、短い手紙だけを残して、突然消息を絶ってしまった。

 

 ごめんなさいね、私、この家を出ます。あなたにはほんとうに申し訳ないと思っています。

 ここで何を書いても言い訳になるからあまり多くを書けないけど、私だってずいぶんと悩みました。

 でも、心だけはどうにもならなかった。

 私はずっと心の奥で自分を偽っていました。あなたは、私には出来過ぎた人でした。私はあなたと一緒にいるに値しない人間なのです。

 夕薫のことを思うと、頭がぐちゃぐちゃになりそう。

 ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい、そして、これまでほんとうにありがとうございました。                       秋江



 僕は何度もその手紙を読み込んだ。どこかに何かが隠されているのではないかと、死にものぐるいで読解を試みた。だが、いくら読み込んだところで文面以上の意味など出てこなかった。

 秋江がいなくなった後、家の中から彼女に関するありとあらゆるものが消滅しているのに気づいたとき、彼女は手間と時間をかけて、計画的に荷造りをしていたことをはじめて知った次第だ。

 そんな僕の無頓着が秋江の心を傷つけていたのかもしれないと後悔することもあったが、すべては結果論だ。彼女がいなくなったという現実は、僕の運命にあらかじめインプットされていたことなのだと受け入れ、その上で生きていくしかないという心の整理はついている。

 その境地に達するまでに、ずいぶんと時間がかかったけど。

 これも後で分かったことだが、どうやら秋江は、他の男と一緒に失踪したようだ。彼女のツイッターにそのことがほのめかされていたらしい。もっとも、恐る恐るページを覗いた時には、アカウントはすでに削除されていて、それ以上の情報を得ることはできなかった。正直、「知らぬが仏」だとその時思った。


 失踪後、僕は上司に事情を説明し、当面は早めに退社させてもらうように配慮を願い出た。上司は、口の中に虫が入ってしまったような、何とも言えない表情を浮かべたが、最後には事態を呑み込み、理解してくれた。

 それからというもの、仕事が終わった後「放課後児童クラブ」に直行して夕薫を迎えに行き、近所のスーパーマーケットで買い物をして、夕食の準備をするという生活が始まった。

 そんなゴールの見えないタスクをワンセットずつこなしていくことに必死で、秋江の消息をつかむことは後回しになり、そのうち僕にも諦めがついていた。


 2人きりになってすぐの頃は、夕薫もさほど落胆の色を見せなかった。母はそのうちひょっこり帰ってくるのではないかという淡い期待があったのだ。

 しかし、着実に時が経つにつれて、表情からは少しずつ笑顔が消え、加速度的に言葉も減った。

 かといって、僕は夕薫に十分に構ってやることもなかなかできないでいた。夕食が終わった後は皿洗いをし、洗濯機を回し、就寝の準備をしなければならなかった。翌朝は5時に起きて、朝食の準備をし、夕薫にランドセルを背負わせて登校を見送った。大学時代ろくに自炊もしなかった僕だから、すべてが中途半端になっていたのは言うまでもない。

 それゆえ、学校の先生から、あの子は大変明るく積極的で、勉強もよく頑張っているという評価を聞くにつけ、むしろ心が痛んだ。

 夕薫は夕薫で、がんばっているのだと。


 それが、今年、中学3年生になってからは、家でも机に向かう時間が増えたし、少しずつではあるが、勉強の話をするようにもなった。ある夜夕薫は、ダイニングでハイボールを飲んでいる僕に向かって、いきなり塾に行きたい、と申し出てきた。

「中間テストが全然あかんかった。すっごい悔しいから、もっと勉強したい。勉強のやり方もちゃんと教えてもらいたいし」 

 それはもしかすると、母親が失踪して初めての、僕への要求かもしれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る