第49話 懸念



 月香げっかはハッとして鍋を手放す。ゴトリと音を立てたそのすぐ傍に、姉が倒れたままピクリとも動かなくなっていた。


「――…あ……、姉さ……っ」

 さっと血の気が引く感じがした。頭の中が真っ白になり、肉の焦げた臭いが鼻につく。

 声をかけても、姉はやはりまったく動かない。さっきまであんなに暴れていたのに。


 死んでしまったのだろうか、と一気に不安が込み上げてきたとき、彼方此方から人が集まって来る気配がした。先程の派手な物音を聞きつけたのだろう。

 このままここにいたら、これを月香がやったと思われる。二人きりでいたのだから、なにを言い訳しても信じてなど貰えない。それは駄目だ。

「櫛……そうだ、櫛!」

 逃げ出そうとして思い出し、慌てて螢月けいげつのまわりを捜す。ふくを脱ぎかけているのだから落ちているかと思ったのだが、見当たらない。

 身体の下に入っているのだろうか、と探ろうとするが、足音と声がすぐ傍まで近づいて来ていることに気づく。

 思わず舌打ちを漏らし、慌てて身を翻して裏口を通って外へと走り出た。


 そのまま少し離れた物陰へと身を隠し、あたりに人がいないことを確認してから、大きな声を出した。

「誰か! お医生いしゃ様を呼んであげて! 厨膳処に人が倒れてる!」

 先程の音の出所は何処なのか、と様子を伺いに集まって来ていた人々が、その声に反応する。

 身を隠して伺っていると、すぐに何人かの女官がやって来て、急いで駆け込んだあとに悲鳴を上げた。

「大変だわ! 誰か医局に行って!」

「女官長様もお呼びして」

「あなた、大丈夫!?」

 女官達が手際よく連携して螢月を助け出す様子を遠目に確認し、月香は物陰から物陰へと移りながら、騒動から遠く離れて行く。ここにいたことを知られたくない。

 今すぐに自分の部屋に戻るのも躊躇われる。もっと離れたところで、この騒ぎが粗方静まった頃に戻るのがいいだろう。

 月香は急ぎ足で後宮の敷地内の端の方を目指す。姿を見られる前に行かなければ。


 妃嬪や女官達の居住の為の建物群から離れ、美しく整えられた季節の庭へと辿り着けば、人々の声はもう遠い。月香は安心して腰を下ろし、膝の上に蒸し餅を乗せた。

 そこで、自分の両手が震えていることに気づく。

 意思とは関係なくガクガクと震えている手を見つめ、思わず「なにこれ」と呟いた声も上擦って震え、それにハッとした瞬間、涙が溢れてきた。


 脳裏に、倒れた螢月の姿がちらつく。

 真っ赤になった姉の細い背中に、自分が焼けた鍋を振り下ろした。鍋の下で暴れる姉の振動が、感触としてまだ掌を揺らしているようだ。

 姉の苦しそうな声が耳の奥にこびりついているような気がして、月香は慌てて両耳を擦った。あんな声、思い出したくもない。

「…………大丈夫よ……」

 助けはすぐに呼んだのだから、姉は死んでいない筈だ。

「私は、殺してない……殺してないわ」

 必死に耳を擦りながら、自分に言い聞かせるように呟く。

 あんな程度で死ぬわけがない。あれくらいの火傷なんかで人が死ぬわけがない。だから、月香はなにも悪くない。


 そもそも先に鍋の上に転んだのは螢月だ。自分で転んで火傷をしたのだから、月香がちょっと刺青の痕を焼こうとしたからって、大きな変わりはない筈だ。

 姉は昔からなかなかに運がいい。月香を庇って崖から転げ落ちたときだって擦り傷で済んだし、川に落ちたときだってすぐに岸に辿り着いていた。今回だって多少火傷の痕が残るくらいで、なんともないに決まっている。


 そうよ、と月香は思った。

 運のいいあの姉が、この程度どうということはない。どうせなんともないのだ。

「だいたい、姉さんがこんなところに来たのが悪いんだわ」

 せっかく月香が掴んだ幸せな環境だというのに、のこのこやって来て邪魔をしようとする。そんな姉が悪い。

 そうよそうよ、と一人頷きながら、蒸し餅の包みを開き、適当に千切る。

「姉さんが世太子妃?」

 その餅を作った姉の顔を思い浮かべながら、口の中に放り込む。たっぷり入れた蓬の香りが口の中いっぱいに広がり、鼻腔を抜けていく。この瞬間が大好きだ。


 もうひと口千切って噛み下しながら、ふん、と鼻を鳴らす。

「お兄様のお嫁さんってことは、兄と妹で結婚するってことじゃない。あり得ないわ」

 生んだ母親は違うのかも知れないが、父親は鴛祈えんきで、実の兄妹きょうだいであることには変わりない。それが夫婦になるだなんて、気持ち悪い。

 そうよ、と月香は餅を飲み込みながら頷いた。

「傷物になった女なんて、世太子妃なんかになれるわけがないわ」

 後宮にいる女性達は、妃嬪ではない女官達でも綺麗に着飾っているし、顔立ちが美しい人が多い。一日中汚れを磨いている掃除婦に至っても清潔で身綺麗にしている。

 そんな女性達の上に立つ者になるというのに、醜い傷を負った女なんていらないに決まっている。

 男性にしたって、醜女よりも美女を選ぶものだ。まわり中からちやほやされて育った月香は、身を持ってそれを知っている。


「……うん。私はいいことをしたのよ。兄妹で結婚しようとしているのを止めてあげたんだから」

 そんな恐ろしい事態にならなくてよかったわ、と月香は一人頷き、蒸し餅をもうひと口放り込んだ。

 いずれにしろ、螢月は出て行くことになるだろう。すぐにでも実家に帰されるかも知れない。そうしたら、月香にはまた平穏な日々が訪れる。

 あとは虹児こうじをどうにかしなければ。彼女は月香に会ったことがあるし、もしかすると、なにか言い出すかも知れない。なにか上手い口実を考えて言い含めておかなければならないだろう。


 ふと、昨日のことを思い出す。

(……母さんが死んだ、って姉さんは言ってた)

 走り去る月香に向かい、確かに姉はそう言っていた。聞き間違えではないと思うが、でもなにかの間違いではないだろうか。

 母はよく寝込んでいたが、季節の変わり目にはよくあることだったし、何処かが悪いということも特になかった。ただちょっと熱を出しやすかっただけだ。

 いつもそんな調子でいたのだから、それが急に亡くなるというのも変な感じだ。なにか他に重篤な病気にでもなってしまったのだろうか。

 王宮にいると、市井の情報には疎くなる。でも、流行病があるとか、そういう話はまったく聞いていない。

 なにがあったのだろう、と不思議で首を傾げる。

 だいたいにして、薬草を扱っている父と姉がついていながら、母が病気で亡くなるなどと言うことはまずあり得ないに決まっている。

 どうせあんなことを言って、月香の気を惹こうとしただけだろう。しっかりと驚かされたからこそそう思う。


(でも、どうでもいいわ)

 家を出たときに、もうあの家とは関わりを絶とうと思ったのだから、父や母が生きようが死のうが関係ない。

 月香は萌梅ほうばい公主として迎え入れられたし、あんな鄙びた村の生活になど二度と戻るものか。これからはこの王宮で、食べ物や着物の心配もせず、野山や畑で手を荒らして仕事をしたりせず、穏やかに暮らしていきたいのだ。


 それにしても酷い冗談を言うものだ、とムッとして、残りの蒸し餅を次々に口に入れた。

「性格が悪いわよ、姉さん」

 最後のひと口に語りかけて口に放り込み、怒りを込めて噛み砕く。

 いくら縁を切って二度と会わない人だろうとも、月蘭げつらんは月香の母だ。一応は大切に思っているし、大好きなその人が死んでしまっただなんて、あんまりな話ではないか。


 そこでふと気にかかる。

 月香は鴛翔えんしょうが連れて来る『想い人』を警戒して、何処か会えない場所にまで追い出してしまって欲しい、とそう大臣に伝えた。娘を世太子妃候補にしたかった大臣は喜んで話に乗ってくれて、その女が遠いところに行くように仕向けてくれたという。それなのに結局鴛翔は『想い人』を連れ戻った。

 まさかよそへやった女が人違いで――螢月と母を間違えて、母の方を何処かへ連れて行ってしまったのだろうか。


 餅を飲み込みながら、あり得ないこともないわ、と月香は考え込む。

 母はもうそれなりの年齢だが、老け込んでいるほどでもないので、二十代には見えないこともない。一人でいたりしたら、若い娘と勘違いされる見た目かも知れない。

(詰めが甘いおじさんだわね)

 呆れて溜め息をつきながら、空になった包みを丸め、木の陰になっているところに隠した。こんなものを持ち帰るわけにはいかない。


「さて、と」

 大好きな蒸し餅を食べてすっかりと落ち着きを取り戻した月香は、唇をぺろりと舐め、振り返る。

 この距離ではあの騒動がいったいどうなっているのか見えはしないが、あまり時間が経っても逆に怪しまれるだろうし、そろそろ戻ってもいい頃合いだろうか。

 変に隠れてこそこそするよりは、普段通りの道を辿り、普段通りに戻る方がいいだろう。そして、騒ぎに驚いてみせてから、同情の言葉でも口にすれば完璧ではないだろうか。

 一連の流れを想定し、よしよし、と頷きながらのんびりと歩き出した。




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