第50話 調査
報せを受けた
「
走って来た為に赤かった頬は、寝台の上に俯せで寝かされている半裸の螢月の姿を見た瞬間、さっと色を失くした。
「
付き添っていた
「何故このようなことに……!」
「わからぬ」
朧玉の返す声は硬かった。その言葉に腹が立ったように詰め寄る鴛翔に、朧玉はもう一度「わからぬ」と答える。
「女官達も困惑しておるのだ。もう監査部の者達を呼んで、調べさせておる」
後宮でなにか問題が起こったときは、監査部と呼ばれる綱紀を取り締まる部署の女官達が調査に当たることになっている。その者達は王后にも女官長にも従わない特別な命令系統にある女官達で、とても有能で信頼が置ける存在だった。
とにかく一度座れ、と椅子を促され、そんな気分でもないので遠慮しようとしたが、螢月の傍へ行っても自分が出来ることはないので、仕方なく指示に従った。
「今、茶を」
「いりませぬ。そのような気分ではありませぬ故」
憤然とする表情を隠しもせず、卓の上に置いた拳を小刻みに揺らしていると、
共に来た筈の潤啓が姿を消していたことにまで気が回っていなかった鴛翔は驚くが、なにかを言うよりも早く、虹児がその場に深々と平伏した。
「申し訳ございません!」
「謝罪はよい、虹児。なにがあったか話せ」
鴛翔は少し苛立った口調で命じ、虹児を立たせる。涙ながらの謝罪などよりも、なにがあって螢月があのようなことになってしまったのか、それが知りたい。謝罪も懲罰もそのあとでいい。
頷き、虹児は青い顔を上げた。
「食事を終えたあと、私達が片づけ物などをしている間は、螢月様はいつも窓辺でお待ちくださっております。今朝もそうでした」
最初の頃は一緒に片づけようとしてくれたのだが、女官の仕事だから、とやんわり諫めると、庭を眺めながら黙って座っていてくれるようになった。
今日も同じようにして待っていてくれていたので、お茶を出したあと、気にせずに片づけ物と簡単な掃除などを済ませ、気づくと螢月がいなかった。
部屋を出た様子はないし、出て行く姿は誰も見かけていない。そもそも出かけるときは必ず一声かけてくれるし、まだ後宮の中に慣れていないので、いつも誰か一人は付き添っている。
そういうことをしないでいなくなるようなことは、今日が初めてだった。だから慌てて全員で捜し回り、中宮殿の外へも捜しに出ようとした矢先に、女性の悲鳴が聞こえたのだった。
「なにがあって厨膳処などに行かれたのかはわかりません。場所も知らなかった筈です」
螢月の行動範囲は広くない。というよりも、こちらに来てからまだ五日といったところで不慣れな為、この中宮殿からほとんど出歩いていない。
「では螢月殿は、誰かと共に出かけた――ということか?」
虹児からの経緯説明を聞き終えた鴛翔は、苦々しげに尋ね返した。
恐らくは、と答える虹児だが、自分のまわりにいる女官達でさえまだ名前と顔が一致していない様子なのに、いったい誰と出かけたというのだろうか。
そうだな、と鴛翔も頷く。螢月は知らない相手にほいほいとついて行くような性格ではない。
しばらく考え込んだ後、鴛翔は「厨膳処に行ってみます」と朧玉に告げ、立ち上がった。
「隆宗殿、すまぬ」
虹児に同行を頼んでいると、朧玉が慌てたように謝罪の言葉を口にした。驚いて振り返ると、彼女は悲痛そうな面持ちでこちらを見ていた。
「後宮の不始末は、私の責任だ。其方の大切な娘をこんな目に遭わせて、すまぬ」
「王后様……」
頭を下げる朧玉に、鴛翔は首を振る。
「反感を抱かれていることがわかっていて、螢月殿を連れて来たのはわたしです。責任はわたしにありましょう」
お気に病まれるな、と優しく声をかけてから、踵を返す。
「螢月殿の手当てが終わったら、呼んでください」
「もちろんだとも。すぐに人を遣ろう」
その答えに微笑み返し、鴛翔は戸口へと向かう。
「衛士府の者は呼んでおきました」
寄って来た潤啓が耳打ちしてくる。虹児の話を聞いている間に手配を済ませてくれていたらしい。本当によく気がついてくれて有難い。
頷いて礼を告げ、溜め息を零す。
「
思わず悔しげに零された言葉に、潤啓が同情的な目を向けた。
鴛翔が四六時中螢月に寄り添うことなど出来なかったのだし、離れている間のことは仕方がない、と言ってやりたいが、そういうことではないのだ。
後宮は人の出入りがある程度制限されていて、外部からの侵入には強いので、基本的に安全であるのは事実だ。そのことに気を許していた部分があるのは、確かにこちらの落ち度になるのだから、鴛翔が悔やむのは無理がないことだ。
とにかく現場に向かおう、と厨膳処へと急ぎ向かう。
倒れていた螢月が発見されてから四半時も経っていないそこには、既に監査部の女官達が調査の為に集まり、彼方此方を見て回っているところだった。
「世太子殿下」
こちらに気づいた監査部長の女官が拝跪し、外で待機していた衛士達の方を見遣る。
「あの方達は、殿下がお集めになられた方々でしょうか?」
「そうだ。女官では手出ししにくいところ――例えば外宮や宮廷などの捜査は任せてくれ。力仕事なども必要なら使え」
「……お気遣い、ありがとう存じます」
鴛翔の言葉に女官は僅かに嫌そうな顔をしてから、慇懃に頷いて見せた。自分達の領分に入って来られるのが厭なのだろう。
仕方がないことだな、と内心で苦笑しながら、潤啓に指揮を任せる。
「散乱しているものとかは、そのままなのですか? えぇと……」
指名された潤啓は、監査部長に状況と進捗の確認をする。
「救助に入った際に少々移動したようですが、それ以降は触らないように指示をしてあります。大きく乱れてはいないでしょう」
なるほど、と応じ、潤啓は素早く部屋の中の様子を確かめる。
「お倒れになっておられたのはこちらです」
まだ僅かに濡れている床を示されたので、部屋の中を見回していた鴛翔もそちらへ向き直る。
濡れた痕を辿ってみると、竈の方に大きな水溜りが出来ていた。
「ここで背中から鍋の上に倒れられたと思われます」
「背中?」
倫來の言葉に首を傾げる潤啓だが、俯せで手当てを受けていた螢月の様子を見てきた鴛翔は、なるほど、と得心がいった。
「咄嗟に冷やそうと判断されて、そちらにある水瓶の方に向かわれたのではないかと」
示された先を見ると、竈と倒れていたところと水瓶までがほぼ直線上になっている。
見つかったときは
「不可解なのは、鍋が竈の傍ではなく――」
倫來は傍の調理台に乗せられていた鍋を取り上げ、螢月が倒れていた場所へと置く。
「こちらに落ちていたらしいのです。転がって来たにしても、そういう状況にはならないのではないかと思われます」
確かに、と潤啓も頷いた。距離と角度と軌道を考えても、こういう位置には来るまい。
では、何故そんなところに転がっていたのか。
「なにか人為的なものを感じます」
倫來はそう呟き、鴛翔と潤啓の顔を見る。
「事故ではなく、誰かに襲われたのかも知れません」
それはなんとなく想像していたことだが、はっきり言葉にされるとドキリとする。
調べる為の証人は既に呼んである、という倫來の言葉を受け、監査部の女官達は何人かが外へ出て行った。
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