第41話 懐疑



 螢月けいげつはなんだか落ち着かなかった。

「まあ、いけません。そのようなことは私共が致します」

 掃除をしようと雑巾を持って部屋の中を移動すれば、目敏い女官がすぐに駆けつけ、それを取り上げてしまう。螢月には座ってお茶でも飲んでいて欲しいらしい。

 食事の仕度をすることもなく、畑に出るでも、薬草摘みの為に山に入るでもないこの生活は、螢月にはなかなか苦しいものがあった。

 虹児こうじに尋ねてみても、元々お嬢様育ちの彼女には螢月の悩みがなんなのか理解出来なかったらしく、気を使って「絵巻物でも見ませんか?」と提案してくれた。

 違う、そうじゃない、という言葉は辛うじて飲み込み、気遣われた提案はそっとお断りした。

 そんなこんなで三日目にして早々に音を上げた螢月は、朧玉ろうぎょくに面会を願った。忙しい王后に我儘を伝えるのは大変恐縮ではあったが、黙っているのは耐えられそうになかったのだ。


「なんぞ不便でもあったかえ?」

 暗い表情でやって来た螢月に、朧玉は優しげな笑みを向ける。

「不便ではないのですが……。私になにかお仕事をくださいませんか?」

「仕事、とは?」

「なんでもよいのです。掃除でも洗濯でも、お庭の手入れでも構いません。なにもしなくていいというのは、とてもつらいのです」

 不思議そうに首を傾げられるのへ、螢月は泣き出したい気持ちになりながら訴えを重ねる。その言葉に朧玉は双眸を瞠った。

「それはすべて下女の仕事だ」

 僅かに呆れを含んで言われるので、螢月はほんの少し落胆した。そう言われるだろうということはわかっていたのだが、はっきり口にされるとやはり悲しい。

 消え入りそうな声で「そうですよね」と頷いて、思わず肩を落とした。


 そんな様子を見て、朧玉は少々厳しい表情を向ける。

「螢月。妃嬪にとって重要なことはなんだか、其方そなたはわかるかえ?」

 問われて考えてみるが、妃嬪という立場どころか、後宮というものすらもよくわかっていない螢月にはなかなかの難問だった。

 悩んでいる様子に、朧玉は苦笑した。仕方がないことだろうと思ったのだ。

「妃嬪というものはな、後宮で咲き誇る花だ。美しく装って王の心を和ませ、高い教養と慈愛の心で王をお支えする。そして、その磨き上げた肉体で包み込み、お慰め差し上げるのが、妃嬪というものだ」

 その言葉に螢月は顔を赤くする。朧玉の言っていることがわからないほどには幼くない。


「其方は心優しい働き者だと世太子殿下は言っておられた。故に、慈愛の心を持つという点では、もう既に及第点だ。足りないのは教養と、閨室ねやでの心得だろう」

 言いながら手を振ると、祇娘ぎじょうが冊子を持って進み出て来た。

「それは男女のことを詠んだ詩が多く収められた書物だ。平易な文体であるし、年頃の女子おなごには読みやすいだろう」

 受け取った冊子を捲って見て、螢月は慎重に頷いた。

「五十程収められている筈だから、一日か二日にひとつずつでよい。ひとつずつ其方なりの解釈をして、私に申告せよ。それが当面の其方の仕事だ」

 螢月は素直に「わかりました」と頷き、時間を取ってくれたことに感謝を述べ、部屋を辞した。


「茶を」

 中断していた本を取り上げながら、控えている祇娘に命じる。

 すぐに茶器が用意されて薫り高いお茶が供されたが、それを差し出した祇娘はなんだか物言いたげな表情をしている。

「如何した?」

「あ、いえ。ただ、少々気にかかりまして」

「なにがだ?」

 ひと口啜って首を傾げ、歯切れの悪い侍女を見上げる。

 はい、と祇娘は頷き、螢月が立ち去って行った方向を見遣る。

「あの方はのだな、と思いまして」

 怪訝そうにして零される言葉に、朧玉は呆れたように息を吐いた。

「あの年頃なら読めるだろう」

 そもそもあの本は、朧玉が十二、三の頃に友人の月蘭げつらんと読み合っていた本だ。それくらいの年頃の少女にも読める本だったので、螢月にも貸したのだが。


 祇娘は僅かに眉を寄せる。

「賤民は、普通は字が読めません」


 朧玉は双眸を瞠った。

「現に萌梅ほうばい公主様は、読み書きが苦手だと伺いました。そう夫人に手紙を送るのも、美峰びほうが代筆しているそうです」

真実まことか?」

「そのように伺っております」

 王のご落胤と、山奥に暮らす村娘――血筋は違えど、育ちは同じ貧困層の賤民だ。それなのに、王の娘は読み書きが苦手で、村娘の方は読むことは問題がなさそうだというのは不思議なものではないか。


「お前の気の所為ではないか?」

 軽く首を振って朧玉は苦笑する。それに対し、祇娘は少し強めた語調で「いいえ」と否定した。

「先程あの方は、軽く捲って中をご覧になっておられました。まったく戸惑った様子はなく、何処か納得しているようにも見受けられました」

 言われてみればそうだ。中を覗いて小さく頷き、朧玉の言葉を理解したような雰囲気だった。

「あの方の性格なら、読めないのならばその場で申告なさるのでは?」

「……確かにそうであろうな」

 顔を合わせてからまだ幾日も経っていないが、控えめながらも物怖じせず、素直で穏やかな螢月の性格はなんとなく把握している。今ここにやって来たのだって、自分の気持ちを伝える為だった。

 そんな彼女なら、なにか疑問でもあればすぐに尋ねた筈だし、文字が読めないことを黙っているとは思えない。読めない者の中にいて、それが当たり前の環境で育っていたのならば尚のこと、それが恥ずべきことだとは思わず、素直にはっきりと言うことだろうと思われる。


「……螢月は、杷倫はりん山の中腹にある、杷蘇はそ村の出だと言ったか?」

「はい」

 杷倫の街の出だと言う萌梅公主と、そのすぐ傍に暮らしていた螢月――境遇も似ていて、年の頃も近い。そのことになんだか引っ掛かりを感じる。


 祇娘は先日、ふた月近く調査していた結果を報告してきた。

 それによると、萌梅という名の娘がその街にいた形跡はなく、養い子が出奔したような家も見当たらなかったということだった。

 代わりに何度も聞いたのは、杷蘇村の月香げっかという娘が行方知れずになっているという話だった。探査人が出奔した娘のことを尋ねる度に、それは月香のことではないのか、と言われたという。

 萌梅が別名を与えられていた可能性はあるが、その月香は家族四人暮らしで、愛らしい容姿から街の人々に可愛がられていたという。萌梅が王や朧玉に語った身の上話とは似ても似つかない。


 考え込みながら、親指の爪を無意識に噛む。

 嘗ての王の想い人である月蘭に瓜二つだったので、萌梅は彼女の娘か血縁だろうと朧玉も思った。月蘭は十八年前に当時の世太子の逆鱗に触れ、家を焼かれて消息を絶っていたので、今年十八だという萌梅の言も多少は信じる要素となった。


 がちり、と小さく音がして、祇娘が小さく咎めるように声を出す。気づいて顔を上げると、爪が欠けていた。

「祇娘」

 慌てて化粧箱を取りに行き、鋏と鑢を手にした祇娘に、朧玉は静かに目を向ける。

「杷蘇村に人を遣っておくれ」

「あの方のことをお調べで?」

「そうだ」

「畏まりました。しかし……」

 言いにくそうにそこで言葉を途切れさせる。

 螢月が家を焼け出され、母を失って緑厳にやって来たことは聞いている。この上更になにを調べろというのだろう、と不思議なのだ。

「お前も言っただろう。何故識字能力がるのか、と。理由がある筈だ」

 もしかすると、なにか識者に縁がある者なのかも知れない。隠棲した賢人の血縁とでもあれば、ただの賤民の娘というよりは印象がいい。

 直接の血縁でなくともいい。賢人に教えを受けていたのならば、教養が備わっているということになり、それだけでも多少は印象がよくなる。

 なるほど、と祇娘は頷いた。結果如何によっては、螢月はもう少しまわりから受け入れられることになる筈だ。


 欠けた爪を綺麗に整え終えた祇娘は、命じられたことを遂行すべく、人を手配しようと立ち上がる。そこを更に呼び止められた。

「それから、月香という娘のことも調べよ」

「畏まりました」


 頷いて出て行く祇娘を見送り、朧玉は整えられた爪を眺める。

「なにからなにまでが真実で、偽りなのか……」

 ずっとそのことが引っかかっていた。けれど、王はなにも疑問を持たずに公主を溺愛しているし、疑念を抱いているのは自分だけで、その感情の方が間違っているのではないかと思い始めていたくらいだ。

 それが螢月が来たことによって、何故か再び思い起こさせる。


 あの公主は、本当に王の娘なのか。彼の恋人であり、朧玉の親友であった月蘭の忘れ形見なのか。

 例え一滴だけであろうとも、毒が垂らされればそれはもう無害ではない。朧玉の公主へ対する疑念は、まさにその一滴だった。


「なにからなにまでが真実で、偽りなのか……」

 もう一度呟き、険しい表情で再び読みかけの本へと視線を移した。



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