第40話 義母



 食事が始まった頃は緊張をしていた螢月けいげつだが、いくらか食べ進めるうちにそれも和らぎ、豪勢な料理の味を楽しむ余裕も出て来た。

 そんな様子は鴛翔えんしょう朧玉ろうぎょくにもすぐに伝わったようで、彼等は揃って笑みを向けている。

「螢月は野菜が好みのようだな。食事は野菜を中心にするように伝えておこう」

 その言葉に驚く螢月の前で、朧玉は祇娘ぎじょうに申し送りをしている。

「螢月殿は先程からその炒め物をよく食べておられるからだ」

 どうして気づかれたのだろう、と不思議に思っていると、横から鴛翔がそう指摘する。もう一度驚くが、聞いていた朧玉が笑ったので、それが事実なのだろう。

「味つけはどうだ?」

「とても美味しいです」

「濃くはないか?」

 見抜かれたように指摘されるので、螢月は頬を染めながら「少し」と答えた。

「遠慮をすることはない。生きる上で食事は大事だ。合わねば身体どころか心も病む」

 まるで自身にそのような経験があったかのように語り、朧玉は微笑んだ。


 頷き返しながら、不思議だわ、と螢月は思った。

 王后様などというものは、もっと厳しく恐ろしい方だと思っていたのだ。それなのに、実際に対面した朧玉は実に気さくで親しみやすく、一生言葉を交わすことなどないほど身分の低い螢月に対しても、まるで母のように優しい。


 母――と思い出し、螢月は僅かに瞳を潤ませた。

 あの優しかった母が亡くなってから、まだ十日も経っていない。母の命を奪った炎の熱さも、苦しげな息遣いも、すべてが一瞬前のことのようにはっきりと思い出せる。


「螢月殿?」

 取り皿を見つめるようにして俯いたまま動かなくなった螢月に、鴛翔が窺うように声をかける。ハッとして顔を上げかけて、涙が零れ落ちたことに慌てた。

 その様子に、鴛翔はすぐに表情を痛ましげに曇らせた。

 杷蘇はそ村を出てから気丈に振る舞っている螢月だが、突然母を失った悲しみと苦しみがとても深いものだと、時折見せるぼんやりとした表情などから理解していた。その痛みを癒して支えてあげたいと思っているのだが、如何せん、そういったことの経験が足りなくて二の足を踏んでいる。

「ごめんなさい。……あの、王后様があまりにもお優しくて、亡くなった母のことを思い出しました」

 涙を拭き、怪訝そうにしている朧玉に答える螢月は、笑顔を浮かべていても無理をしているのがよくわかる。

 そうか、と朧玉は気遣うような目で頷いた。


「私には子がおらぬ。故に、真に母らしいことは出来ぬだろうが、これからは義理の母として、其方の亡くなった母御の分まで気にかけよう」

 嫌か、と問われるので、螢月は慌てて首を振った。

 けれど、その言葉に引っ掛かりを感じてしまう。


「あの……お訊きしてもよろしいでしょうか?」

 躊躇いがちに零される言葉に、朧玉は僅かに嬉しそうに「なんだ?」と受け入れる。

「王后様は、鴛翔さ――世太子殿下のお母様ではないのですか?」

 鴛翔は国王の息子である世太子なので、その正妃である朧玉が母親かと思っていたのだが、違うのだろうか。

 ああ、と朧玉は頷く。

「私は隆宗りゅうそう殿の養母ではあるが、生母ではない。彼女は隆宗殿を生んで間もなく亡くなっておる」

 そう答えて痛ましげな表情になるが、すぐに笑みを浮かべる。

「私が陛下の許へ嫁いだのは、十六年前のことだ。今年二十二になる隆宗殿を生むのは無理であろう?」

 それでは不義の子ではないか、と軽く言われ、螢月はなんとも言えずに頷いた。


「わたしはそれまで乳母の許で育ったのですよ」

 朧玉の言葉を継いで、鴛翔が自分の身の上をそう語る。

「王后様がわたしを引き取ってくださったのは、確か七つになってすぐの頃でしたね。その頃にはわたしも随分捻くれてきていたから、王后様はご苦労なさったことだろうと思います」

「まったくだ」

 頷き、朧玉は笑う。

「幼い頃の隆宗殿はほんにやんちゃでの。いろいろと悪戯を仕掛けられたものだ」

 わざとらしく溜め息を零して見せてから、目許を和らげる。懐かしむようなその目つきに、彼女が小さな鴛翔をとても可愛がっていたのだろうと容易に想像出来た。


 話を聞いていた螢月も、月香げっかが幼かった頃を思い起こす。

 舌足らずな声で自分を呼び、よちよちとあとをついて回っていた三歳下の可愛い月香。今はいったい何処でなにをしているのだろうか。


「子はよい。いるだけで日々が楽しくなる。故に、其方そなた等も早く私に孫を見せておくれ」

 ふと物思いに耽った螢月に笑みを向けながら、朧玉は世継ぎを望む言葉を口にする。

 なにを言われたのか一瞬わからずにきょとんと見つめ返した螢月の横で、鴛翔が頬を染めて「王后様!」と少し咎めるような声を出す。

「螢月殿は、まだわたしの妻になってくださるとは……」

「おお、そうであったな。失念しておったわ」

 僅かに尻すぼみになる鴛翔の言葉に、朧玉はぽんと手を打つ。


 螢月がどういった事情で緑厳ろくげんに来ることになったのかは、早馬の報せで知っていた。それ故に、世太子妃立后の布令ふれを出すこともなく、正式な住居も用意はしなかった。所謂『行儀見習い』として預かる――そういう態なのだ。

 そう説明され、なるほど、と螢月は頷いた。実はまだ、いまいち自分の立場を理解しきれてはいなかったのだ。

 後宮の中で世太子妃として接されることになるが、心情的には候補者の一人だと思っていてくれ、と鴛翔は躊躇いがちに付け加えた。表情がほんの少し寂しそうだ。

「行儀見習いで他家の娘を預かることはよくあることだ。身構えることはない」

 朧玉も頷くので、螢月はほんの少しだけ安心した。

 夫婦になるということがどういうことなのか、螢月も年頃なので一応はわかっているつもりだ。それでも、鴛翔に対する気持ちがまだそこまで高まっていないというのが実情で、求婚は嬉しいとは感じたが、まだ戸惑いの方が強い。


 村にいられなくなったので鴛翔の言葉に甘えてここまで来てしまったが、よくよく考えてみれば、相当に図々しかったのではなかろうか。

「故に隆宗殿、螢月。其方等が二人きりで会うことは禁ずる」

 不安に感じていると、それを遮るかのように朧玉が尤もらしく告げた。

 え、と鴛翔は僅かに言葉を詰まらせる。

「当たり前であろう。年頃のおのこおなごが二人きりで会って、間違いが起こらぬとも限らぬ」

 面会は基本的には陽があるうちだけで、夜に会う場合は朧玉に断りを入れろ、と条件まで示された。鴛翔はなんとも言えない表情になり、気不味そうに螢月を見遣る。

 見つめられた螢月は、こてりと首を傾げた。

「なんだかおかしな感じですね。二人でいると、前は父さんに睨まれて、今度は王后様に許可を貰わなければいけないそうです」

 そう言って面白そうに笑うので、鴛翔も曖昧に笑みを浮かべる。

 この後宮に於いて、王后である朧玉の意思は絶対だ。彼女が認めないことは、例え王命であったとしても認められない。

 その朧玉がこう言っているのだから、是と頷いて従うしかないのだ。




 話と食事が終わり、鴛翔は政務に戻り、螢月は与えた部屋へと移った。

 朧玉は食後のお茶を差し出してきた祇娘を振り返り、悪戯っぽく笑みを浮かべた。

「なかなか気持ちのいい娘だった」

 食事を摂るときには人間性が出る、というのが朧玉の持論だ。食べ方に品がなければ礼を失する人間であるし、食べ物に対する感謝を持たない者は他者を見下しやすい。だから為人を知りたいときは、共に食事をすることにしている。

 螢月はそのどちらにも当てはまらず、どれもこれも物珍しそうに食べていたのが素直で愛らしい。


 然様でございますね、と祇娘は頷いた。

「明るく、かと言って出過ぎることもなく。世太子殿下に対して気安すぎるのはどうかとも思いますが、賤民にしては言葉や手つきが綺麗です」

 下女の躾に厳しい祇娘が控えめながらも高評価をつけているので、朧玉は小さく声を立てて笑った。

「隆宗殿は見る目が確かだ。そうは思わぬか?」

「さあ。それはどうでございましょうか」

「なんだ、歯切れの悪い。なんぞ気がかりがあるかえ?」

 珍しく曖昧な答えに首を傾げ、腹心の侍女を振り返る。彼女は僅かに厳しい顔をした。

「初見の印象など、いくらでも繕えるものです。現に公主様は馬脚を現し始めました様子」

 随分な言い様だったが、それを咎めるようなことはせず、朧玉は茶碗を卓の上に置いた。


「なにかわかったのか?」

 突然現れた王のご落胤を名乗る少女に僅かな不審を抱き、調べるように命じたのはもうふた月近く前のことだ。そろそろなにか報告が上がる頃かと思っていた。

 祇娘は頷き、僅かに声を落とした。




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