第39話 歓談



 実家を焼け出された螢月けいげつは、自分の持ち物がなにもない。鴛翔えんしょうが買ってくれた襦裙きものと飾り紐、そして母の形見となってしまった櫛だけが、螢月の持ち物だった。

 まさに着の身着のまま、身ひとつで後宮へ入った娘は、後にも先にも螢月くらいだろう。


 興奮よりも緊張から高鳴る鼓動を感じながら、螢月は自分の為に用意されたという部屋に案内される。先導してくれるのは鴛翔だ。

「王后様のお計らいで、螢月殿の居所は中宮殿――王后様のご居所に一間用意してくださった。過ごし方をご教授くださるそうだ」

「そうなのですね」

 説明に頷いていると、多くの女官達が整然と並んだ建物の前へと辿り着いた。その女官達が一斉に叩頭する。

「こちらが王后様のご居所、中宮殿だ」

 驚いている螢月に、鴛翔がその建物を指し示す。


「世太子殿下、世太子妃様」

 叩頭した女官達の中から、少し年嵩の女官がひとり、するすると進み出て来る。

「王后様がお待ちになっておられます」

 どうぞ、と洗練された仕種で招かれ、螢月は頷くと共に頭を下げた。

 彼女の名前は祇娘ぎじょうといい、王后の筆頭侍女なのだ、と鴛翔が耳打ちしてきた。螢月には後宮のことなどまだよくわからないが、王后付きの女官達の中で彼女が一番偉いのだということは理解した。

 常に朧玉ろうぎょくの傍らに控えている祇娘が出迎えたということは、螢月はかなり好意的な待遇を受けていることになるのだが、もちろんそんなことに気づきはしない。気づいたのは鴛翔の方で、朧玉が螢月を迎え入れる為にとても心を割いてくれているのだと感じ、本当に有難くなった。


 中宮殿の中はとても明るく清潔で、柱も壁も天井も、豪華な装飾に彩られていた。

 螢月が今までに見た豪華な建物といえば芙蓉ふようろうくらいだったので、それよりも豪華で美しく、けれど下品な華美さのない洗練された美しさに圧倒され、ますます緊張する。

 居間となっている部屋に扉はなく、代わりに美しい布がかかっていた。祇娘が声をかけると、その布がするすると横に避けられていく。

「よく参られた」

 目を丸くしている螢月に向けて、部屋の奥から朧玉が声をかける。ハッとして大きく深々と頭を下げると、部屋の主は微かに笑ったようだった。


「あちらにお席をご用意致してございます。お入りになって、どうぞおかけください」

 王族の前でどういう態度をすればいいのかわからず、頭を下げたまま固まってしまった螢月に、祇娘がそっと耳打ちし、朧玉の座っている方を示す。椅子が二脚用意されていた。

 鴛翔にも促され、ようやく頭を上げた螢月だが、目線だけはどうしても上げられない。俯き加減に進み、鴛翔が先に腰を下ろそうとしたところで、その場にガバッと平伏した。

「螢月殿!?」

 驚いた鴛翔が振り返るのと、朧玉と祇娘が同じく双眸を瞠ったのは同時だ。

「この度は、恐れ多いことをしでかしました。お許しください!」

 震えて上擦る声が謝罪の言葉を口にするので、何事か、とその場にいた者達はざわめく。意味がわかったのは鴛翔ぐらいだろう。


 ああ、と鴛翔が溜め息を零したのを横目に、朧玉は「何故なにゆえか?」と問うた。責めるようなものではなく、あくまで事情を尋ねる優しい声音だった。けれど、螢月は身を竦ませる。

「私のような者が、世太子殿下のご好意に甘えてしまいました。知らなかったこととはいえ、それは言い訳になりません。とても不相応なことでした」

 申し訳ございません、と強く言うと、鴛翔が困ったように傍らに膝をつく。

「螢月殿。それは既に納得くださったことではないか」

 今更なにを言うのだ、と困惑気に零され、螢月はなんとも言えない心地になる。


 確かに、四日前に鴛翔から本当の身分を聞かされ、二晩かけて戸惑いと混乱をなんとか消化し、改めて彼と共に行こうと決めはした。世話になっていた潤啓じゅんけいの屋敷を出立するときも、これでもう後戻りは出来ぬのだろう、ともう一度決意を新たにして出て来たのだ。

 それでも実際に宮殿へと足を踏み入れ、王后に拝謁賜ることになると、自分のしようとしていることの恐れ多さを再認識させられずにはいられなかった。


「知らなかった――とは?」

 朧玉は怪訝そうに眉を寄せる。

 床に額を擦りつける状態の螢月をなんとか起こした鴛翔は、説明を求めている様子の朧玉に視線を向け、言いにくそうに口を開いた。

「身分を、伝えていなかったのです」

 言葉を選ぶように告げられた事情に、どういうことか、と朧玉は更に眉を寄せる。

「螢月殿はわたしが世太子だと、緑厳ろくげんに来るまで知らなかったのです」

「なんと……」

 その告白に朧玉は双眸を見張り、僅かに言葉を詰まらせた。驚いたのだろう。


 一瞬の間を置いてその表情を改めると、今度は少し責めるような顔つきになって鴛翔を見つめる。

「では隆宗りゅうそう殿は、その娘を騙して連れて来られたということか?」

「騙すだなんて!」

 驚いた鴛翔は慌てて否定するが、螢月のことを振り返ると、僅かに気不味そうな表情になった。

「……そう言われても、仕方のないことなのかも知れません」

 落ち込んだ声音で答えるのへ、今度は螢月が困惑を浮かべた。

「私は騙されたなんて思っていません。鴛翔さんはただ、ちょっと言い忘れていただけなのでしょう?」

「いや……」

 肯定的なその言葉に、鴛翔は言葉を詰まらせる。

 騙すつもりはなかったが、伝え忘れていたわけでもない。意図して黙っていたのは事実なのだ。

 そんな二人のやり取りに、朧玉は僅かに呆れたような表情になり、控えている祇娘を振り返る。その視線を受けた祇娘は僅かに首を振り、二人は同時に笑った。

其方そなた達になにやら行き違いがあったことはわかった。取り敢えず、そちらへ座られよ。話は食事を摂りながら聞かせてもらおう」

 もう昼餉の時間だ、と言われ、二人は頬を染めて立ち上がった。


 腰を下ろすと控えていた女官達が滑らかな動きで寄って来て、食事を並べる為の卓を用意したり、間を置かずして運ばれて来た料理の品々を並べていく。

 手際よく素早い身のこなしだというのに、慌ただしさは一切感じられず、まるで舞うかのような優雅さだ。たかたかと彼方此方を走り回って支度する自分の様子を思い出し、螢月はほんのりと頬を染めた。


「名は、螢月でよろしかったか?」

 見たこともない料理の数々に目を奪われていると、朧玉が尋ねてくる。

「はい。はく螢月と申します」

「螢月は好きな食べ物はあるかえ? 魚はどうだ? この酢漬けは美味ぞ」

「山育ちなので、生の魚はあまり食べたことがありません」

「では、まず食べてみよ。口に合わねば残してよい」

 笑みを浮かべた朧玉は手ずから酢漬けの小魚を取り皿に盛りつけ、螢月の前に置いてくれた。すっかり恐縮してしまった螢月だが、厚意を邪険にするようなことなど出来ない。

「口に合ったか?」

 窺うようにしながら口に入れた螢月に、朧玉は期待に満ちた目を向ける。

「美味しいです。ちょっとお酢が強い感じですけれど」

「暑くなってきたからな、仕方がない。酸いのは苦手か?」

「あまり食べたことがないので……」

「そうか。では肉の方が好きか?」

 今度は鳥肉と野菜が炒められたものが乗った皿を示す。

 螢月は返答に困ってしまう。ここで頷いたら、また取り分けてくれそうな雰囲気なのだが、王后様に何度もそんなことをさせるわけにはいかない。


 そんな様子を見ていた鴛翔が、楽しげに笑い声を零す。

「なにか? 隆宗殿」

「いいえ、ご無礼を。王后様がそんなに世話焼きだったとは、存じ上げませんでした」

 可笑しそうに言うので、朧玉は片眉を軽く跳ねさせる。

「螢月はこちらに不慣れであれば、世話を焼いてやるのが先達の務めであろう。それに、素直な子は好きだ」

 そう言って笑う。その笑みがなんの含みも持たずに明るいものだったので、鴛翔も同じように微笑んだ。


 朧玉は本心から好意的に螢月を迎え入れてくれているのだ。

 この後宮の主である朧玉が受け入れてくれるのならば、螢月が難儀な目に遭うことはまずないだろう。その事実に安堵せずにはいられない。

「ありがとうございます、王后様」

 思わず礼を言うと、朧玉は微かに笑って「なんのことだか」と肩を竦めた。



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