第38話 苛立
だが、よく見えない。わざとらしく薄絹を被いて横顔すら見えなくしているのだ。
なにをそんなにも勿体ぶっているのだろうか、と内心呆れて鼻で笑いながら、そんな様子に腹が立った。この月香がわざわざ見に来てやったというのに。
仕方がない、と月香は身を翻す。あの様子ではこの場で被き布を取るようなことはないだろうし、まったくの無駄足だった。
取り敢えず部屋に急ぎ戻って、見物に送り出した女官達を待っていよう。興味のない振りをしていたのだから、不在にしていては格好がつかない。
人目を避けながら素早く駆け戻り、刺しかけの刺繍絵の前に腰を下ろして針を手にしたところで、女官達がちらちらと戻り始める気配がする。程なくして、月香付きの女官達も部屋に帰って来た。
「ただ今戻りました」
「お許しをありがとうございました」
そんなことを口々に言う様子に頷き返しながら、何気ない風で「どんな方だった?」と尋ねてみる。
「大人しげな方でしたよ」
言葉を交わしたわけではないので、緊張した面持ちがそう見えただけかも知れないが、と言われ、月香は僅かに肩を強張らせる。
「公主様に比べれば平凡なお顔でしたけれど、目がぱっちりと大きいのが印象的でしたわ」
「ちょっと色は黒かったようですけれどね」
そう言って、女官達はくすくすと忍び笑った。
月香はますます身を強張らせ、針を持つ手が震える。
「顔――見たの?」
尋ねる声も小さく震えた。動揺を隠しきれない。
ええ、と女官達は頷く。
「丁度進まれる方向に立てたので、わりとよく見えました」
一応礼儀通りに叩頭してはいたのだが、横目で確認する程度は出来たのだ。他の女官達も同様にしているようだったので、咎められることもなかった。
そう、と頷きながら、月香はとうとう針を針山に戻した。こんなに震えていてはまともに刺せそうにない。
(目が大きくて、色が黒い……)
心中で女官達の言葉を反芻しながら、輿と共にいた
(背はそんなに高くない女……)
思い浮かぶのはやはり姉の姿だ。月香は姉の身長を三年ほど前に抜いてしまっている。
確証はなにもない。けれど、受け取る情報のどれもが、姉のことを示しているように感じられる。それ故にますます不安になっていく。
こんなことならば、先程あんな態度を取らずに、正々堂々と真正面から出迎えて顔を見てやればよかったか。――いや、それでは自分の素性を晒すことになってしまう。
月香は苛立ちと不安から唇を噛み締め、掌に爪が食い込むほどに拳を強く握り締める。
それでも平静の表情を取り繕って、女官達を振り返った。
「目が大きいなんて羨ましいわ。きっと可愛らしい方なのね」
笑みを浮かべて告げると、女官達は顔を見合わせ、思わずといったように破顔した。
「ええ、然様でございますね」
「世太子殿下にとっては、殊更お可愛らしく見えていらっしゃるようで」
「本当に睦まじいご様子でしたわ」
微笑ましげとでも言わんばかりの表情に首を傾げると、女官達は笑みを堪えながら「世太子殿下がわざわざお出迎えにいらして」と説明してくれた。
どうやら月香が踵を返したあとに
女嫌いだと噂されていた世太子が、零れんばかりの笑みを浮かべて手を差し出し、嬉しげに女の先導をしたのだから、出迎えに出ていた女官や侍従達が呆気にとられたのは言うまでもない。その様子に本当に驚いたし、同時に、そんなにも想いを寄せる相手なのか、と微笑ましくも感じたのだった。
女官達が纏うその空気に、月香はひっそりと眉根を寄せる。
この柔らかで穏やかな雰囲気はいったいなんなのだ。月香の心はこんなにも乱れて苛立っているというのに、なにをそんなにも和やかに笑い合っているのか。
長く空位だった世太子の妃が一人でも決まったことは喜ばしいことなのかも知れないが、それでもその娘は賤民だ。身分が低く貧しい出自の娘で、とても一国の主となる男の妻に適しているとは思えない。それをそんなにも笑顔で受け入れていて、誰も彼も揃って頭が可笑しいのではないか。
苛々しながら爪を噛む。
今頃あの女は、王后の
なにかヘマをしていればいい。そうして王后の不興を買って、後宮の中での居場所を失ってしまえばいいのだ。
そんな意地の悪い考えが頭を過ってから、ふと、月香にある考えが浮かんできた。
(……そうよ。そうだわ)
何故、今までこのことを考えつかなかったのだろう。相手は誰か、まさか姉ではあるまいか、と唯々怯えてなどいないで、先にこうしていればよかったのだ。
とても有効だと思える策に思い至った月香は、楽しげな女官達からそっと視線を逸らし、ひっそりと悲しげに溜め息をついて見せる。
その様子を目敏く見止めたのは、もちろん
「如何なさいましたか、公主様?」
その問いかけにハッとしたように顔を上げ、悲しげに瞳を揺らめかせて「いいえ、なにも」と答えて目線を逸らす――この一連の思わせぶりな仕種は、もちろん美峰の気を引く為だ。
月香の思惑にまんまと引っかかってしまった美峰は、心配そうに傍に寄って来て、俯き加減の月香の顔を覗き込む。
「そんな悲しげなお顔をされて……なにか、お気に病まれることでもございましたか?」
主人の憂いを払うのも女官の務めだ。美峰は真摯な表情を月香に向ける。
月香は俯いたまま何度か瞬き、ぐっと唇を噛み締めて震わせる。すると両の瞳が僅かに潤んできた。
その潤んだ瞳で美峰を見つめ返す。
「……不安で」
消え入りそうなほど小さな声で零すと、美峰は更に心配そうに眉尻を下げる。
「なにがでございますか? なにをそんなにご不安に感じておられるのです?」
今までにない公主の様子に、美峰は心から案じているようだ。問いかける声が優しいながらも、すべてを聞き出そうとしていることをはっきりと感じさせる。
月香はもう一度瞬き、潤んだ目許を袖口でそっと抑えた。
「……私、
小さな声でゆっくりと吐き出された言葉に、はい、と美峰は頷き返す。
その話は、月香がこちらに来たばかりの頃に少し聞いた。母一人子一人で、貧しいながらも慎ましく暮らしていたのだと。
「母が亡くなったあとに、親代わりになってくださったお家があるのだけれど……私、そちらで、あまりいい扱いを受けられなくて」
「はい。そのように聞き及んでおります」
「そこに同じ年頃のお嬢さんがいらしてね……その方が、その……私をよく
「まあ!」
月香の告白に美峰は驚きと共に眉を吊り上げる。いくら知らなかったことだろうとはいえ、国王の娘たる公主に手を上げるなど、なんという不届き者か。
折檻を加えるようなことももちろん許されることではない。面倒を見てやっているからと言っても、決して奴隷ではないのだから。
美峰はとても憤慨している。
「本当にご苦労なさっておられたのですね。お可哀想に」
月香の手を握り締め、心から同情している表情で頷く。その様子に月香はもう一度瞳を潤ませた。
その頃には、迎え入れられた世太子妃の話題で楽しげだった女官達も、心配そうな表情で月香と美峰のまわりに集まって来ている。月香はもう一度瞬きを繰り返し、涙を一粒、ぽとりと零した。美峰は握り締める手に力を込め、その涙を否定するように首を振る。
「もう誰も公主様を打つ人などおりませんよ。今更お心に病むことはございません」
安心してください、と微笑みかけられるのへ、月香は首を振る。そうして、もう一度「不安なのです」と呟いた。
「お兄様がお連れになられた方が、そのお嬢さんなのではないかと思えてしまって」
「まさか!」
月香の言葉に美峰は大袈裟なくらいに驚愕する。けれどその仕種に嘘偽りはなく、本当に心から驚いているのだ。
まさか、と美峰はもう一度呟く。
それでもなにかに考えが巡って行ったのか、静かに口を噤んだ。まわりで聞いていた女官達も同様の表情でざわめき、小声で言葉を交わし合う。
「……杞憂だとよいのですが」
月香は震える声で零し、無理矢理と言った風情で笑みを浮かべた。
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