第42話 心得



 散歩に行かないか、と虹児こうじが誘ってきたのは、夕暮れが近くなった頃だ。

 螢月けいげつ朧玉ろうぎょくから言われた通りに、借りた詩集の初めの詩を読み込んでいるときだった。

 振り返ると、虹児の後ろに祇娘ぎじょうの姿もある。

「虹児さんもまだこちらのことはお詳しくないでしょうから、僭越ながら、私がご案内させて頂きましょうかと」

 どうやら虹児は、ここでの暮らしに少し負担を感じ始めていた螢月の気晴らしに、何処かに連れ出してくれようと考えたらしいのだが、あまり詳しくはないので、祇娘に助言を受けようと出向いたらしい。それに気を回して、祇娘が案内兼付き添いを申し出てくれたようだ。

 とても申し訳なく感じるが、朧玉の許可は貰っているので気にするな、と言われ、螢月はその誘いに乗ることにした。


「螢月様は、花はお好きですか?」

 虹児の他に三人ほどの女官に付き添いを命じながら、祇娘が尋ねてくる。

「特に意識したことはありませんが、嫌いではないです」

 螢月にとって草花といえば生薬であり、愛でるというよりも生活の糧だ。摘み取っては乾燥させて商品とし、薬種問屋に納品したり、頼まれた分を知人に分けたりしていた。

 そのことは特に伝えずにおくが、祇娘はなにかを感じ取ったのか、ただ微かに笑う。

「花菖蒲は見頃を終えていますけれど、この後宮には少し遅咲きのものがありまして、今はまだ盛りを楽しむことが出来ます。そちらにご案内しても?」

 白菖は鎮静、鎮痛作用や咳止めなどの薬効があるものとして認識しているが、花が咲くものはよく知らない。螢月は頷いた。

 では、と祇娘は先に立って案内してくれる。


 道すがら、あちらにはなにがあり、そちらにはなにがある、と簡単に教えてくれるのもとても有難い。螢月は頷きながらまわりを見て、場所を覚えようとした。ここは建物の配置が複雑だし、あまりにも広すぎるのだ。

 迷子になって迷惑をかけたくはないな、と思っていると、その懸命な様子に気づかれたのか、祇娘が優しく笑みを向ける。

「そんなにご心配されずとも、すぐに慣れますよ。ご自分で出向かれる場所など限られてきますし、用があれば官女を呼べばいいのですから」

「そういうものでしょうか?」

「ええ。螢月様は次の王后となられるお方――いいえ、まだ仮のお話でしたね。それでも、そのようなお立場の方なのですから、迷惑をかけるとか、申し訳ないとか、そういうことに気を回さずにお振る舞い下さいませ」

 妃嬪の後宮での振る舞い方に対しての助言指導だと感じ、螢月は有難く思って頷いた。

 もちろん傍若無人に振る舞えば、例え反抗の許されない下の者達からでも反感は買うし、そうなれば見えないところで小さな嫌がらせをされることくらいあるかも知れない。けれど螢月は、好き勝手に振る舞え、と言っても遠慮するだろうし、問題はない。要は堂々としていろ、ということだ。

 亡くなった母にも、友人達にも、もう少し積極的になるべきだ、とよく言われていた。内向的というほどではないが、ほんの少し人見知りをするのは自分でもわかっているので、もう少し気をつけなければ。


 螢月の後宮での身分は、世太子妃候補のひとり、ということらしい。しかも世太子である鴛翔えんしょうが自ら選んだ人物だ。

 それはつまり、螢月の振る舞いひとつが、鴛翔の評判を傷つけることに繋がるものではないか、と思われる。

 螢月の出自はただの貧しい村娘に過ぎない。それだけでも印象はあまりよくないだろうし、それがまた礼儀のなっていない者だとしたら、盛大な顰蹙を買うに決まっている。螢月だってそんな人がご主人様だと現れたら、ひどくがっかりするに違いない。

 鴛翔からの求婚を本当に受け入れようと思ったときに、後宮にいる人達からがっかりされないような、そんな振る舞いを身に着けたい。螢月はそう思った。

 これには祇娘に教えを請うのがいいのではないだろうか、と思い至り、前を進んで行く細身の侍女を見遣った。


「あの」

 控えめに声をかけると、耳ざとく振り返ってくれる。

「お妃様らしい振る舞いとは、どういうものなのでしょう?」

 勇気を振り絞って尋ねてみると、祇娘は驚いたような表情になって足を止める。隣で聞いていた虹児も振り返った。

 螢月は自分がなにか不味いことを言ってしまったのだろうか、と二人の表情から不安になるが、彼女達は別に咎めるようなつもりはなく、ただ単純に驚いただけだった。

振る舞い、というものがどういうものか……それは生憎と私も存じ上げません」

 申し訳なさそうに祇娘が苦笑する。

 というのも、妃嬪達それぞれが、性格に因って振る舞いがまったく違うからだ。どれが正解ということもない。

「昼頃に王后様をお訪ねくださったとき、後宮の女というものがどういうものなのかはお聞きになられましたよね。その上で螢月様がお尋ねになりたいのは、人を従える者としての振る舞い、ということでしょうか?」

 螢月は大きく頷く。さすがは長年王后を支えている侍女頭だ。螢月のたどたどしい問いかけも正確に意味を汲み取ってくれる。


 ふむふむ、と祇娘は頷き、虹児を見遣る。

「人を使うという意味でなら、虹児さんが先輩でいらっしゃいますよ。虹児さんからお聞きすればまず間違いはないかと存じます」

 言われてみればそうだ。今は螢月の侍女として一緒に後宮に来てくれたが、彼女は大きなお屋敷に住む貴族のお嬢様で、多くの召使い達に傅かれて生きてきたのだ。

 なるほど、と頷いて虹児を振り返ると、彼女は苦笑して肩を竦めた。

「そうは仰られましても、私は少々型破りでしたからね。あまり参考にはならないかと」

「それでもいいです。教えてください」

 熱心に見つめると根負けしたように、溜め息混じりに「……わかりました」と答えてくれたので、螢月はホッとする。


「そしたらまずは、そのお衣裳から改めませんとね」

 半目になった虹児の視線が、螢月の姿を見回す。

 え、と小さく零して自分のふくを見て、困惑の表情を浮かべると、ついて来ていた他の女官達も小さく頷き返していた。もちろん祇娘もだ。

「だいたいその袍、何処から持って来たんですか? どう見ても、掃除婦のものですよね」

「掃除婦……」

 酷い言われようだ。

 これは緑厳ろくげんに着いてすぐに鴛翔が反物を買ってくれたので、自分で仕立てたものだ。だから、布地は上等なものであるのは確かなのに、下女の制服扱いをされてしまった。

 亡き母や月香げっかほどには裁縫は得意ではないが、自分の着物を縫うくらいは出来る。いつもそうしていたので気にしていなかったが、まさか掃除婦とは。


 僅かに心の奥に傷を負っていると、虹児は嘆かわしそうに首を振る。

「着飾るのはあんまりお好きじゃなさそうってお話は、以前に殿下からお聞きしていましたけども、ここは後宮です。女官達から舐められない為にも、もっとお洒落しませんとね」

 虹児のその言葉に、そうね、と祇娘も頷いているし、他の女官達も頷いている。螢月はますますしょげてしまう。

 そんな螢月の様子を見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、虹児は軽く咳払いをした。

「まあ、お部屋の中にいるだけなら、楽な格好でいいと思いますし、そういうのを着ていてもいいんじゃないでしょうか。ねえ、祇娘様?」

「そうですね。苦手な格好は、心も身体も疲れますものね」

 慰めるようにそんなことを口にして、取り敢えず、外出用の襦裙は早急に何着か用意しよう、ということを言われた。螢月はそれに頷くしかなかった。



「道をお譲り下さい」

 僅かに尖った声を向けられたのは、そんなときだった。

 振り返ると、美しく着飾った女官の集団がいて、こちらを邪魔にしているようだ。

「公主様のお通りです。そこをお退きなさい、無礼者達」

 年嵩の女が侮蔑の表情で尚も言う。

 どうやら暇を持て余した女官達がたむろしているのだと思われたようだ。全員が気不味そうな顔をしたが、祇娘だけが、僅かな嫌悪を浮かべてすっと双眸を眇めた。


 避けなくちゃ、と螢月が動こうとすると、その腕を祇娘に掴まれる。

「こちらは世太子妃様がお使いになっておられます。道は広うございますから、どうぞそちらをお使いくださいまし」

 確かに幅員は十分にある。避けなくても本来は問題ないのだ。


 進言したのが祇娘だと気づいた公主の女官達は、さっと顔色を変える。王后付きの侍女頭である祇娘は、女官長の次に強い権限を持っているからだ。

 戸惑いを浮かべるその一団の向こうで、若い娘が一際強い目つきで睨みつけている。

 その視線に気づいた螢月は、双眸を瞠った。


「――…月香?」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る