第35話 門出
声の主は
彼は
「なんだよ、それ」
僅かに震えて上擦る声が、もう一度同じ問いかけを発する。
「俺の嫁にはなれなくて、そんな得体の知れない他処者の嫁には行くのかよ、螢月」
「おい、青甄」
ふらりと歩み寄って来る青甄の肩を、共にいた
「なあ、螢月!」
怒鳴るように大きな声を出され、螢月は思わず身を竦めた。
青甄には昨夜の祭りの際に、結婚を求めるようなことを言われた。けれど、その申し出に言い様のない不愉快さを感じてしまい、すぐに断ったのだ。
求婚の証の簪を渡しながら、彼は「本当は
その告白に不誠実さを感じて、どうしても受け入れられなくて断ったところで、村の方に火の手が上がっていることに気づき、遊びに来ていた全員で慌てて戻ったのだ。その所為で回答が微妙に有耶無耶となっていた。
凄むような態度などは、いつも仏頂面で目つきの悪い父の様子から慣れてはいるが、大きな声で怒鳴りつけられるのは苦手だ。怯んで後退りながら、自分の身を守るようにぎゅうっと両腕を抱く。
「やめろって、青甄」
螢月が怯えている様子に気づいた一星が押し留めようとするが、青甄は止まらない。もう一度腕を振り払い、螢月の許へ近づいて来る。
その間に
「なんだよ、あんた?」
不愉快そうに尋ねられるので、鴛翔も軽く眉を寄せる。
「
「
明らかな敵意の滲む声で言うので、護衛の男達が気づかれないように身構える。
チッ、と舌打ちすると、青甄は踵を返した。
「何処でこんな男を
吐き捨てるように侮辱的な言葉を投げつけられ、螢月は双眸を瞠った。
「これだけ親切にしてやってきたっていうのに」
唇を皮肉気に歪めながら呟き、睨みつけるように見遣ってくる。その目の中に明らかな苛立ちが見て取れて、螢月は無意識に怯んだ。
「お前がそんな尻軽だとは思わなかったよ、螢月」
大きな溜め息と共に言うと、そのまま村の方へ戻って行ってしまう。一星も螢月達に慌てて会釈を残し、青甄のあとを追って行った。
「……なんだ、あいつは」
厳しい表情で黙り込んでいる鴛翔の代わりに、護衛の一人が呟いた。まったくだな、と他の男達も同意し、気遣わしげに侮辱を受けた螢月に視線を向ける。
酷い言葉を投げつけられた螢月は、凍りついたように固まってしまっている。
まさかあんなことを言われるだなんて、思ってもみなかった。青甄がそんなことを言うような人だったなんて、まったく想像の範囲の外だった。
人は見かけによらないな、と呆れたように嘆息したところで、強張っていた身体から緊張が解けていく。どっと疲れが押し寄せてきた。
よろけたところを鴛翔が支えてくれようと手を伸ばしてくれるが、一瞬早く、螢月は守月に抱き留められる。
「あれは何処の誰なのでしょう?」
差し出しかけた手を引っ込めながら、鴛翔は苦笑して尋ねる。
村長の長男だ、と守月は答えるが、表情がいつもより険しく歪んでいる。
「面倒なことになったな」
娘を侮辱されたから怒っているのだろうか、とその表情の意味を読み解こうとしていると、ぽつりと呟かれる。その言葉に螢月は再び身を強張らせた。
村長の一族に嫌われたりしたら、あっというまに村八分にされる。こんな狭い村落の中のことだ、村中から無視をされるだけでも即死活問題に繋がるのだ。
どうしよう、と螢月は青褪める。あんな唐突な求婚を断っただけで、こんな事態になるとまでは考え至らなかった。
自分一人が嫌がらせを受けたりする分にはいいが、父や、いずれ戻って来るだろう月香にまで被害が及ぶのは、大変に申し訳ない。
青褪める螢月を慰めるように肩を抱き、守月は鴛翔に向き直った。
「問おう」
その言葉に「なんなりと」と鴛翔は頷く。
「お前は
父の問いかけに、螢月はハッと息を飲む。震える声で呼びかけるが、黙殺された。
対する鴛翔は、僅かに考える素振りを見せてから、言葉を選んで口を開く。
「蔡家の中に限定して言えば、かなり上位に在るとお考え頂きたい。螢月殿を守れるか、との問いには、全力を尽くします、とお答え致そう」
答える鴛翔の瞳をじっと見つめる。隠している部分はあるように感じられるが、嘘を言っているような雰囲気はないと思われる。
ふう、と息をつき、守月は不安げに見つめてくる螢月を見下ろした。
「お前はこいつと共に、都に行け」
「父さん?」
「青甄の様子を見ただろう。ここに居づらくなるのは必至だ」
村を離れるのが得策だ、と言われるが、螢月は首を振る。
「月香が戻って来るかも知れないのに……」
行方の知れなくなっている妹のことが一番の懸念だ。彼女が戻ったときに誰もいなかったりしたら、どれだけ傷つくことだろうか。
ただでさえ母の死に目にも会えていないのに、家族全員とも行き違ってしまったら、もう二度と会えないような気がする。そんなことは絶対に嫌だった。
悲しげに声を震わせる螢月の肩を抱き、大丈夫だ、と守月は言った。
「月香は、恐らく都にいる」
えっ、と声を詰まらせ、螢月は双眸を瞠った。
「詳しい居場所はまだわからない。だから父さんは、
そう言って鴛翔を睨みつけるように視線を送る。その視線を受けた鴛翔は少し驚いたように目を見開いたが、黙って頷いた。
「……話がある。面を貸せ」
渋い顔で顎をしゃくり、この場を離れるように指示をする。頷いた鴛翔は、護衛の者達に向かって身振りで示し、螢月の傍にいるようにも伝えてその場を離れた。
父に言われたことを反芻しながら、離れて行く二人の姿を見送っていると、あのぅ、と声をかけられる。振り返ると、柔和な面持ちの武官がこちらに会釈を送ってきた。
「火の番、していましょうか?」
その言葉にハッとする。母を焼く火の番をすっかり疎かにしてしまっていた。
先程までは村の人達が見ていてくれたが、いつの間にか人影がなくなっている。立ち去る際に青甄がなにか言ったのだろうか、と嫌な考えが浮かんでしまい、気分が落ち込んだ。
「ありがとうございます」
礼を言って火の傍に行き、まだ時間がかかりそうだと確認する。
ほうっと細く息を吐き出すと、酷く頭が痛むような気がした。
昨夜から立ち止まることなく降りかかってくる状況に、思考と心が追いついて行けていない。感情のなにもかもがぐちゃぐちゃに混ぜられて、けれど綺麗に混ざりきらなくて、酷く濁った状態のまま沈殿しているような心地だ。
もう一度溜め息を零して俯いていると、先程の武官が隣に立っていることに気がついた。
「ゆっくりとでいいと思いますよ」
振り返ると、心の内を見透かされたような言葉を投げかけられる。
「焦って整理をつけることはないと思います。お母様が亡くなられた悲しみも、世……いえ、鴛翔様からのお申し出の答えも、ゆっくりと考えて、お心に納得をさせればいいと僕は思います」
的確な言葉を告げられて、螢月はますます驚いた。
「あの……?」
いったい誰なのだろうか。
「ああ、いきなりすみません。
「はあ……。あ、螢月です」
名乗り合って会釈し合うと、なんとなくお互いに笑みが浮かんだ。話しやすい雰囲気の人だと思う。
父と鴛翔が戻って来るまでの間、火の番をしながら潤啓と少し話をした。彼の祖父も少し前に亡くなったことや、鴛翔とは幼い頃からの仲であること、螢月を伴侶に迎える為にいろいろと努力をしたことなど。
話をしていくうちに、螢月は不思議と落ち着いてきた。潤啓の柔らかい雰囲気がそうさせてくれたのかも知れない。
だからこそ、しばらくして戻って来た父と鴛翔に、はっきりと自分の気持ちを告げられた。
「私、鴛翔さんと都に行きます」
これが正しい決断だと思った。
先に更なる波乱が待ち構えているとは、このときは知る由もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます