五章
第36話 告白
馬に揺られること二日。
「……こちらが、
馬を下り、家人に手綱を渡していた鴛翔は螢月の声に振り向いて、僅かに言葉に迷う素振りを見せる。
「ここは僕の屋敷です」
代わりに答えたのは
まあ、と螢月はもう一度目を丸くする。勘違いを恥じて頬を染めた。
潤啓は鴛翔の護衛などをやっていたので、まさかこんなに立派な屋敷に住んでいるような人だとは思わなかったのだ。
では鴛翔の家は何処なのだろうか、と螢月は僅かに首を傾げた。彼から嫁に来て欲しいと請われたので、実家に連れて行かれると思っていたのだが。
「易の結果がよくないと言われて……」
尋ねると、少し言いにくそうに答えてくれる。
どういうことかと思えば、なにか新しいことを行う際は
なるほど、と螢月は頷いた。易経など詳しくもないし触れたこともないが、昔からそうしている家なら、出た結果に従うのが当たり前だろう。
「そういうわけで、仮住まいとして我が家にご滞在頂こうかと思いまして」
にこにこと微笑みながら潤啓が言う。
「今は妹と二人家族で、離れに叔母親子が住んでいますが、母屋の方には来ませんので部屋はいくらでも余っています。炊事も洗濯もすべて下女がやってくれますので、ご不便はないと思いますよ」
快適な滞在を提供出来ましょう、と微笑まれるが、そんなに気を遣ってもらうのは逆に申し訳ない。滞在費代わりに掃除ぐらいさせてもらえないだろうか、と思うが、それでは使用人の仕事を取ってしまうことになるのでよろしくない。
迷った挙句、螢月は「ご厄介になります」と頭を下げた。
そんな様子に潤啓は楽しげに笑い、頭を上げるように言ってきた。
どうぞ、と促されて門を潜れば、よく手入れされた大きな庭が広がり、潤啓の家が生半可な家柄ではないことを覗わせる。
「お腹空いてませんか? 少し待って頂ければ、なにかご用意出来ると思うんですけど」
入り口で出迎えてくれた女性達から清めの
「いいえ、大丈夫です」
「そうですか? ご滞在中は我が家と思って、遠慮なくなんでも言ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
礼を言うと、いえいえ、と軽く頷かれた。相変わらず柔らかい態度で、その様子に螢月は安心した。
先に客間へ通しておくように下女に指示を出し、それについて行く螢月の後ろ姿を見送った潤啓は、鴛翔を見遣る。
「――…殿下。お茶を飲みながらでいいですから、そろそろお話しされては?」
諭すような口調で言われた鴛翔は、僅かに跋が悪そうな顔をしている。
「殿下のお気持ちはお伺い致しましたけれど、いつまでも黙っているわけには参りませんでしょう?」
杷蘇村からの二日の道中の間、鴛翔は自分の身分を螢月には明かさないでいた。
いつ話すつもりなのだろう、と見守っていたが、一向に切り出す気配がないまま緑厳に辿り着いてしまったのだ。王宮からの指示で更に四日の猶予が出来はしたが、もういい加減に伝えるべきではなかろうか。
それでも躊躇いを見せる鴛翔に、潤啓は僅かに呆れたような目を向ける。
「直前どころか、いざ王宮に連れて行かれ、実は世太子殿下でしたーなんてことになったら、螢月様がどのようなお気持ちになられるか……」
酷い方ですね、と責めるように零すと、鴛翔は「わかった」とようやく口を開いた。
「今、伝える。このあとすぐに、だ」
その答えに潤啓は大きく頷く。
「では、
「そうしてくれ」
頷きながら溜め息を零すが、鴛翔の覚悟はようやく決まったようだ。潤啓はもう一度頷き、傍に控えていた下女に妹を呼んで来てくれるように告げた。
しかし、螢月が待っている筈の客間へと向かうと、そこには既に虹児の姿があった。
驚きと同時に思わず顔を顰めて妹を見遣ると、そんな兄の視線に気づいた虹児が笑みを浮かべて振り返る。
「お帰りなさい、兄さん。お役目ご苦労様でした」
いつもより幾分品よく労いの言葉を告げると、鴛翔に向かって丁寧に膝を折る。
「このような
あっさりと正体を明かすような言葉を言われた鴛翔は、ギョッとして慌てて螢月の方を見遣るが、意味がわかっていなかったのか、平静として茶碗を手にしている。その様子に安堵するやら一抹の寂しさを感じるやら、微妙な気持ちになった。
「なんでお前がここにいるの……」
椅子に腰を下ろしながら困惑気に尋ねる潤啓に、虹児はにんまりと微笑んで、袂から取り出した書状をひらひらと振って見せる。大急ぎで今朝届けさせたものだ。
「これからお仕えする方が、どんな方か気になったのだもの」
そう言って、虹児は螢月へと向き直る。そうして、先程鴛翔に向けたものと同じくらいに丁寧に膝を折り、叩頭した。
「螢月様、改めてご挨拶申し上げます」
喉が渇いていたので遠慮なくお茶をご馳走になっていた螢月は、その呼びかけに驚く。明らかに身分の高そうなお嬢様から敬称をつけて呼ばれるだなんて思いもしなかった。
「えっ、なに? なんで、えっ……わ、私!?」
あわあわと言葉に詰まりながら虹児を振り返り、どういう態度を取ればいいのか見当もつかず、唯々困惑する。
「あ、あの……立ってください。あの……」
取り敢えず顔を上げさせようと隣に膝をつき、呼びかけようとして名前がわからないことに気づく。
「ごめんなさい。お名前は? 取り敢えずお顔を上げて……」
申し訳なく思いながらも尋ねて肩に手をやると、虹児はようやく顔を上げてくれた。
凛とした雰囲気の少女だった。正面から見据えてきた眼差しは強く、顔の造形は潤啓によく似ているのに、僅かに上がった切れ長の目尻は、柔和に下がっている潤啓のものとは正反対だ。
「
はきはきと名乗る声も涼やかで、年頃の少女には少し失礼かも知れないが、お嬢様というよりは若様というような印象だ。それくらいに凛々しかった。
虹児はきりっとした目つきで螢月を見つめると、口許には頼もしげな笑みを刷く。
「本日より、螢月様の護衛として尽くさせて頂きます」
その言葉を聞いた螢月は、一瞬なにを言われたのかわからなかった。
答えるべき言葉が見当たらず、双眸を瞠って虹児を見つめ返すことしか出来ない。
困惑気に虹児の兄である潤啓を振り返り、助けを求めるように鴛翔へと視線を動かした。二人は気不味そうに表情を歪めたあと、揃って溜め息を零す。
「……お前は本当に、順序というものを知らない」
諦念の滲む声音で呟くと、取り敢えず立ちなさい、と虹児の居住まいを直させ、螢月にも改めて着席を促した。
「螢月様、お話がございます」
頭の中を疑問符でいっぱいにしている様子の螢月へ、潤啓が静かに切り出す。
困惑が治まらないまま頷くと、潤啓からの目配せを受けた鴛翔が言葉を継いだ。
「実は、螢月殿にひとつ、黙っていたことがある」
「黙っていたこと?」
言われた言葉を噛み砕いて理解するように鸚鵡返しにすると、静かに頷き返される。その様子になにかよからぬものを感じて、螢月は無意識に重ね合せた手の甲を摩った。
螢月が混乱している様子は鴛翔にもよくわかる。この数日の間に、突然母を失い、生まれ育った村を追い出されるように立ち去らねばならなくなったり、立て続けに襲いかかって来た不測の事態に疲弊しているところに、今のところ唯一頼りになるだろう鴛翔からもこんなことを言われれば、不安を感じないわけがないだろう。
けれど、伝えると決めたからには、きちんと伝えなければ。
鴛翔は心を落ち着けるように静かに息を吸い込み、重ね合わされた螢月の手に自分の掌を重ねた。
「わたしは、この国の世太子です」
ゆっくりと聞き取りやすく告げられた言葉だったが、螢月の頭の中にはきちんと入って来なかった。瞬き、小首を傾げる。
鴛翔は苦笑し、もう一度ゆっくりと話し始めた。
「わたしの住まいは王宮内の東宮殿で、螢月殿は後宮の中に部屋を用意されていると思う」
「こうきゅう」
言葉の意味を理解していないような口調で呟かれるので、鴛翔は思わず苦笑した。
「後宮といっても、今は王后様と公主がいるだけだ。当代の陛下は側室を持たれなかったので」
仕えている女官は千人からいるが、先代よりはずっと人数が減って静かだ。なにも恐いことはない、と告げられ、螢月は首を傾げながら見つめ返す。
「鴛翔さんが、世太子様?」
確かめるように尋ねられるので、鴛翔も「そうだ」としっかり頷いた。
「世太子様というのは、王様のお世継ぎ様――次の国王様ということですか?」
「そうなる」
もう一度しっかりと頷き返されたので、螢月はようやく鴛翔の言葉の意味と、自分の中の知識を結びつけて飲み込むことに成功した。
なんの冗談だ、と思った。
都の貴族の家柄だろうとは思っていたが、それがまさか王家だなんて、いったい誰が予想出来たものか。目を回して倒れなかったことを褒めて欲しいくらいだ。
「……気つけ薬でも持って来ましょうか?」
虹児が気遣わしげに訊いてきたので、一も二もなく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます