第32話 焼失



 月蘭げつらんの悲鳴が聞こえると同時に家の一部が崩れ、それを見て、いてもたってもいられなくなった守月しゅげつは水を被り、皆が制止するのも聞かずに燃え盛る家屋の中へと飛び込んだ。

 狭い家だから、煙に巻かれた月蘭の姿はすぐに見つけられる。

「月蘭!」

 寝室だった場所に倒れている姿を見つけて駆け寄り、その細い身体の上に乗った梁を持ち上げる。燃えたその木材は相当に熱かったし、皮膚が焦げるのも感じられたが、そんなことに構っていられる余裕はない。

「月蘭!」

 呼びながら抱え起こすと、瞼が微かに震え、吐息混じりに「スウォル……」と名前を呼び返してくれた。


 守月が何故ここにいるのだろう、と月蘭は思った。彼は今夜、少し離れた村の外の炭焼き小屋に泊まっている筈なのに。

 僅かに首を傾げるとその気持ちが伝わったらしく、言葉少なに、村が燃えているのが見えたからだ、と告げてきた。

 休憩がてら花火でも眺めようと外に出てみると、村の方が異様な明るさに染まっているのが見えたのだ。異変があったのだと急いで戻ってみれば、我が家が燃えているのだから青褪めた。


 安堵の息を吐いたが、のんびりとしているような暇はない。早く逃げなければ。

 抱き上げて振り返ると、たった今入って来たばかりの場所に、燃えた天井が崩れ落ちてくる。外の村人達からも悲鳴が上がった。

 思わず舌打ちが出るが、なにかを考えている時間などなく、一瞬でも惜しい。

 上衣うわぎを脱いで月蘭を包み、火の粉から庇うようにしっかりと抱え込む。小さな呻き声が上がったが、我慢をしてもらうよりほかはない。

 すべてが焼け崩れてしまう前に出なければ、と覚悟を決めたところで、外から聞き知った悲鳴が聞こえた。螢月けいげつだ。


「母さん! 母さんは何処!?」

「駄目だ、螢月! 火に巻かれるから!」

「でも母さんが!」

 娘の悲痛な声に、月蘭が僅かに反応した。守月は頷き返し、月蘭を抱き締める腕に更に力を込める。

 ぐっと強く踏み込み、炎花の舞う中を駆け抜ける。


 炎と熱風の壁を突き抜けて飛び出すと、消火に尽力してくれていた村人達の間からどよめきが起こる。

「守月さん、あんたなんだって無茶を!」

「おい、水!」

 炎で嬲られて赤くなった肌に水がかけられると痛みが走ったが、守月は短く呻くだけで堪え、抱えて来た月蘭をその場に横たえた。

「母さん!」

 村人達に押さえられていた螢月が駆け寄って来て、ぐったりとした月蘭の傍に膝をつく。


「なんで……なんで、こんなことに……っ」

 炎熱の所為で赤くなり、煙と煤で黒く汚れた母の顔を見て、螢月は涙を溢れさせた。

 火の不始末などするような人ではない。日暮れ前には食事を終えるような人なので、今頃こんな事態になっているのも妙な話だ。

 残っていた天井が崩れ落ちたが、家を焼く炎はまだ勢いが衰えない。

 村の男衆が懸命に消火に当たってくれているが、これはもう、家が焼き崩れるまで消えることはないだろうと思われる。隣家に燃え移らないように祈るばかりだ。


「――…け、ぃ……げ……つ……」

 涙を零す娘へ向かって、月蘭が指先を伸ばす。螢月は慌ててその手を掴んだ。

「くし、は……もって、い、る……?」

 何故こんなときにそんなことを尋ねるのだろう、と螢月は驚いた。だが、すぐに頷いた。

 そう、と月蘭は微かに頷いて笑い、僅かに指先を動かして、螢月の手を握り返す。

「だい……じに、もって……いるの……よ……」

「喋らないで、母さん」

 途切れ途切れ苦しげに話す母の声に、螢月は首を振る。こんなときに無理をしてまで話すような内容ではないではないか。


医生いしゃはまだか」

 村長である孫家の当主が汗を拭きながら尋ねる。この村には医生はおらず、重篤な症状の者がいれば杷倫の街まで呼びに行くのだ。

「さっき青甄せいしん一星いっせいが行ったよ。……まだかかるだろう」

 月蘭の胸から下に血が滲んでいる様子を見て、答える男は痛ましげな表情になる。手当てが間に合わないかも知れない、と思ったのだろう。

 家にあった薬や包帯などを持ち寄った女達も、横たわる月蘭の姿を見て、それぞれが静かに拳を握り締めて涙ぐんだ。


 嗚咽を零す螢月を見つめてから、月蘭は守月の姿を捜す。

 すぐ隣に項垂れるようにして座っていた姿を見つけると、螢月が握っている手とは反対の手を差し出し、その膝頭に触れた。

「ス……ウォ、ル……」

 呼びかけると、煤で汚れた顔がハッと向く。耳を口許に近づけ、掠れる小さな声を聞き逃すまいと耳を澄ませる。

「ウォ……ヒャン、は……ろ、くげ……に……」

 その言葉に守月は双眸を瞠る。月蘭は静かに頷き返した。

「わかった。捜し出す」

 それが守月の答えだった。

 螢月には二人のそのやり取りの意味はわからない。こんなときにいったいなんの確認をし合っているのだろう、と不思議で堪らなかったが、なにかが通じ合っているらしい二人の様子を見て、なにも言えはしなかった。


 伝えたかったことを言い終えた月蘭は苦しげに息を吸い込んで、吐き出すように小さく「すまない」と零した。

 その声を聞いた守月は双眸を瞠り、首を振る。何度も首を振りながら、その手を握って顔を近づけ、苦しげに表情を歪めた。


 月蘭はもう一度、すまない、と零す。

「おまえ……の、じん、せぃ、を……しば、って……しま……った……」

「そのようなことは……!」

 絞り出すように零される悔恨の言葉に、守月は何度も首を振る。否定する。

 けれど月蘭はそれを拒絶するように、僅かに首を動かした。

「すまない……あり、が、とぅ……」

 そう囁いて微かな笑みを浮かべたあと、身体からふうーっと力が抜け落ちて行くのを、握った手を通して螢月も守月も感じ取った。


「母さん?」

 螢月は呆然と母の顔を覗き込む。先程よりも穏やかな表情をしているが、呼吸は辛うじてまだある。

「お医生様は!?」

 溢れ出る涙を堪えながら振り返り、まだ来ないのか、と確認するように周囲に投げかける。残念ながら誰も答えられる者はいなかった。

 叫び出しそうになる声を堪えて母の手を握り締めながら、どうしてこんなことに、と答えのないだろう問いかけを心の内で繰り返す。


 月蘭はゆっくりと瞼を開け、真上に輝く白い半月を見上げた。


 ――この者はスウォル。月を守ると書く。


 何処からか、嘗ての父の声が聞こえた。

 父はそう言って、薄汚れた身形の守月スウォルと、月蘭を引き合わせたのだ。あの日も、こういう少し太った半月が輝く夜のことだった。


 月から視線を逸らし、手を握ってくれている守月の顔を見上げる。

 焼け焦げた髪が額や頬を覆っていて、その表情はよく見えない。けれど、泣きそうな目をしているような気がした。

 無口の仏頂面で、動作もぶっきら棒な彼は、本当はとても心優しい。感情豊かで涙脆いところがあるのも、月蘭だけは知っている。


(泣かないで)

 囁いた言葉は、ちゃんと音になっていただろうか。

(ありがとう、スウォル)

 焼けた所為で短くなった髪の長さが、初めて出会った頃に似ている、と月蘭は思った。

 月蘭より八つ年上の、不思議な金色の瞳をした異国の少年。家族を喪い、放浪していたところを、父が拾って来た。


 あの日から二十六年。

 周囲を偽って夫婦として暮らして、十八年。

 可愛い娘達にも恵まれて、決して裕福ではなかったけれど、家族四人で穏やかな日々を暮せて――



「しあわせ、だった……」




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