四章

第28話 暗澹



 重い足取りで戻って来た父は、低い声で「少し休む」と呟いて寝室に行ってしまう。

 その様子に、また駄目だったのだわ、と螢月けいげつは思った。知らずうちに溜め息が零れ、表情が暗くなる。


 月香げっかの行方がわからなくなってから、既にふた月が過ぎる。

 芙蓉楼ふようろうにいなかったことを知ったあと、部屋の中を調べてみると螢月の財布が空になっていることが判明した。路銀にと持ち出したのかも知れないが、大した額ではない。上手く遣り繰りしても半月がいいところだろうし、そういうことが苦手な月香には無理があると思われる。

 何処ぞで仕事を見つけて食い扶持を稼いでいればいいが、月香に出来そうな仕事など限られている。上手くお針子など得意な職にありつけていればいいが、もしもそうではなかったら――


 嫌な想像に至ってしまい、螢月は唇を噛み締めた。

 このふた月の間、何度も何度もそのことを考えてしまっては、恐くて泣き出したくなっていたのだ。


「お父さんが帰ったの?」

 水場に野菜を洗いに行っていた母が、戸口のところに置かれた旅道具に目を留めて尋ねる。ええ、と螢月は頷いた。

「でも、また駄目だったみたい」

「……そう」

 答える螢月の表情も、頷く母の表情も暗くなる。


 少しの沈黙のあと、母は溜め息と共にふるりと首を振ると、笑顔を浮かべた。

「疲れているだろうから、なにか精のつくものを用意しましょうか」

「干し肉と干しあわびが少しあるわ」

「じゃあ、それで汁物をこさえましょう」

 母の笑顔に螢月は頷き返す。

「お肉にする?」

「鮑の方が少し古いでしょう」

 そちらを先に使おう、と言われ、螢月は戸棚から乾物を保存している瓶を取り出した。

 海岸から数日の距離にあるこの地域では、海産物は高級品だ。いくら乾物になっていても値は張るので、螢月の家では特別な祝いのときにしか使わない。それでも、疲れて戻った父に精をつけさせようと思えば、相応しい食材でもある。


 水にさらして戻している間に、母は米の支度をしている。螢月も籠を手にした。

わらび採って来る」

 旬は少し過ぎてしまったが、まだ生えている秘密の場所がある。母が作る蕨の炒め物が好きな父の為に摘んで来よう。

「気をつけて」

 母は笑顔で螢月を送り出してくれたが、声にはやはり元気がない。


(父さんは戻った。でも月香は戻らない)

 そのことが母の心をどんどん弱らせているのを知っている。

 最近の母はよく眩暈を起こす。発熱することも多くなったし、ずっと微熱続きだ。心の不調が身体に出ているのだろう、と医生いしゃは言っていた。

 夏の入り口である今はまだいい。だがもうすぐ訪れる真夏の暑さは、今の母では耐えられないかも知れない。


 螢月は唇を噛み締め、涙で歪む視界に腹立たしさを抱いた。めそめそと泣いている余裕などないというのに、この両の瞳は最近殊に潤みやすい。

(月香の、莫迦ばか……)

 それもこれもあの可愛い妹が悪いのだ。

 月香は昔から心配ばかりかけさせる。螢月なんかより、両親の方がその何倍も何十倍も心配している。

 こんなに両親の心を痛ませたりしたら、螢月なんか申し訳なくて堪らなくなってしまうのに、月香はあまり気にしない。何度でも同じことをして心配させて、平然としている。その神経だけは、螢月には一生かかっても理解出来そうになかった。


「螢月」

 目許をごしごしと乱暴に擦りながら歩いていると、呼び止められた。青甄せいしんだ。

「……泣いているのか?」

 真っ赤になった目で振り返った所為で心配げな表情をされる。

「ええ、あの、目になにか入って」

「だったらそんなに乱暴に擦っちゃ駄目だろう」

「そうね。でも、もう取れたみたいです」

 もう大丈夫、と苦笑いを向けると、青甄は小さく溜め息を零した。


「さっき、親父さんを見かけたんだけど」

 僅かに言い淀むような口調で零された言葉に、ええ、と螢月は頷いた。

「戻って来たところです」

「そうか」

 頷く青甄の様子に、彼がいったいなにを言いたいのか、螢月には簡単に察しがついた。けれど、それをこちらから先に答えてやる必要はない。


 軽く笑みを浮かべ、それじゃあ、と別れの為に頭を下げた。早く森に行って来ないと、食事が出来上がってしまう。

「螢月」

 立ち去ろうと踵を返したところを止められる。珍しく肩など掴んで強引に振り返らせるものだから、少し驚いた。

 自分でも乱暴だったと思ったのか、青甄は小さな声で謝りながらすぐに手を離す。

「明後日の祭り」

「はい」

「行くのか?」

 明後日は一年で一番日が長い夏至で、各地で盛大な祭りが開催される。

 この村でも夜通し祝いの篝火を焚いておくが、杷倫はりんの街に降りれば花火も打ち上がるような規模の祭りが行われている。若い人は皆そちらに遊びに行くのだ。螢月も数年前からは月香を連れてそちらに行っていた。


 しかし、今年はこのような状況だ。

 螢月は曖昧に表情を濁し、わかりません、とだけ答えた。

「そうか……そう、だよな」

 事情がわかっているだけに、青甄はなんと言えばいいのかわからなかったのか、それ以上はなにも言わず、呼び止めて悪かった、と言って立ち去った。

 螢月も会釈して踵を返し、森の中へと分け入って行く。


 祭りに行こうと思えば行ける。両親も止めることはないだろうし、そういう場にあまり積極的ではない螢月が自ら「行きたい」と言えば、笑顔で送り出してくれるに決まっている。

 年に何度か行われるこういう祭りは、豊穣の願いを込めたものであったりするのが開催の主旨ではあるが、若い男女の出会いの場としての意味合いもある。もう十八になった螢月は完全に適齢期で、そろそろ相手を見つけなければ、という頃合いなのだ。

 そういう場に異性を誘うということは、婚姻相手として考えている場合が多い。

 鈍い螢月でもわかる。さっきの青甄の態度は、どう考えてもそういうものだったとしか思えない。それが腹立たしかった。


(月香をお嫁に欲しいって言っていたのに)

 年頃の女の子達から夫候補として人気の高かった青甄が、まだ幼ささえもある月香に求婚し、やはり彼も顔で選ぶのね、などとみんなで揶揄していたのはついこの春先のことだ。

 その月香がいなくなったことは村中に知れ渡ってはいるが、だからといって、今度はその姉である螢月に声をかけてくるなんて――軽薄な男だったのだ、と螢月は思った。

 螢月だって、青甄をいいなと思っていたうちの一人だ。それでも、こんなに簡単に、手軽な身内に乗り換えられるのは、選ばれたからと言って全然喜べない。先の半生を共にする伴侶を選ぶのに、そういうのはちょっと違う気がする。


 螢月だっていつかは結婚することになるだろうし、両親のようなお互いを支え合う夫婦になって、温かい家庭を築きたいという思いはある。

 けれど、青甄の態度はなんだか嫌だった。


 彼が悪いわけではきっとない。こんな狭い村の中にいるのだから、誰でもこういう風に選ぶものだろう。

 それでも、これは違う、と螢月の心は言っていた。



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