第29話 晴着



「今夜は夏至祭ね」

 畑仕事を終えて戻って来た螢月けいげつに、父の旅装を繕っていた母が言ってくる。

 ええ、と頷いて水を飲み、椅子に腰かけた。

「これからますます暑くなるのね」


 夏至祭が終われば、秋の収穫祭までは夏季だ。気温の高い日々がやって来る。

 杷倫はりんりゅう国の中でも寒暖差があまり酷くなく過ごしやすい地域にあり、夏もそこまで暑くはならない。けれど、汗も掻かないほどに涼しいわけではない。

 この杷蘇はそ村は山中にあるので朝晩は寝苦しくない程度の気温だが、今日は雲ひとつない快晴の上に気温も高めで、真夏のような暑さだった。強い陽射しの所為で赤くなった腕を見て溜め息を零しながら、螢月は苦笑した。


「また焼けたの?」

 腕を気にしている様子に気づいた母が、僅かに顔を顰める。

「気をつけなさい。あなたは月香げっかと違って皮膚が弱いのだから」

 螢月の肌は特に日光に弱い。すぐに熱を持って腫れてしまうのだ。色白の月香は意外にも肌が強い。陽に焼けても赤くなるだけですぐに引くし、そのまま黒くなることもない。羨ましいことだ。

 一応気をつけてはいたのだけれど、と思いながらも、反論はせずに頷いた。


 糸を切って針を置いた母は、苦笑して立ち上がる。

「冷やすついでに汗も流してしまいなさいな。水汲んで来るから用意して」

「えぇ? いいよ、そんなの……」

 確かに汗は掻いたけれど、そんなに臭うほどではない。寝間着に着替える前に拭こうと思っていたので、まだ少し早い。


 嫌そうに遠慮する螢月に、母は楽しげな笑みを浮かべる。

「なにを言うのよ。いいから支度なさい。それで、お祭りに行ってらっしゃいな」


 その言葉にハッと息を飲み、螢月は僅かに眉を寄せた。

 あまり嬉しそうには見えないその様子に、母は首を傾げる。

「行かないの?」

「だって、月香が……」

 言いかけ、やめた。なんだか言い訳みたいだ。


 溜め息を零して視線を逸らすと、その俯きかけた顔を上げさせるように母が頬に触れてきた。

「家のことは気にしなくていいのよ。あなたはどうしたいの、螢月?」

「母さん……」

「行きたくないならいいの。でも、そういうわけでないのなら、気晴らしをして来なさい」

 螢月は昔から家の手伝いをよくするいい子だった。今でもそれは変わらないどころか更に手際がよくなり、ほとんど主婦のような状態だ。そのことで大変助かってはいるのだが、このままでは伴侶を捜すこともままならない。

 妹の世話もよく焼いて、苦労もたくさんかけさせたのはわかっているので、いい相手を見つけて嫁ぎ、幸せになって欲しいと思うのが親心というものだろう。

 そんな母の気持ちはわかるつもりなので、螢月はかなり躊躇ったあと、了承の意味で頷いた。


 母が嬉々として水を汲みに行ってくれたので、螢月は衝立ついたてたらいを用意して、替えの肌着を持って来る。溜め息をつきながらふくを脱ぎ落し、髪を解いた。

 本当は祭りに行くような気分ではない。けれど、若い娘らしくそういう場に出かければ母が安心するというのなら、期待に応えるのも必要なことだろう。

 もう一度溜め息を零したところで母が戻って来たので、礼を言って盥の中へ屈んだ。


「随分赤くなってるわね」

 腕と首を見た母が呟く。螢月も頷いた。

「お水、冷たくない?」

「大丈夫。気持ちがいい」

「やっぱり熱を持っているのね。まだ真夏でもないのに……」

 溜め息を零されたので苦笑するしかない。今日は特別晴れていたから仕方がないのだ。


 腕を冷やしている間に背中を流してもらい、さっぱりとすると、着替えている間に母はそそくさと奥へ行ってしまった。

 なんだろう、と思っているとにこにことしながら戻って来る。その手にあったものを見て、螢月は思わず頬を染めた。

「これ、着るんでしょう?」

 母が持って来たものは、夏の草原のような青みの深い襦裙きものだ。


 あの日――鴛翔えんしょうを杷倫の街に送って行った螢月は、芙蓉楼ふようろうと薬種問屋で用事を済ませたあと、預けてあった飾り紐を受け取りに行くと、一緒にこの襦裙が用意されていた。

 こんな高価なものは受け取れない、と慌てて断る螢月だったが、既に代金を受け取ってしまっているので困る、と店主夫婦に訴えられては拒絶も出来なかった。

 持ち帰って両親に説明すれば、やはり渋い顔をされた。他処の人から気軽にもらうには少々高価だからだ。

 けれど、螢月の晴れ着は月香に上げてしまっていたので、有難く貰っておけ、と母は苦笑したのだった。父はなにも言わなかった。


「素敵な色合いよね」

 着付けを手伝ってくれながら母は言った。

「あなた小柄だから、こういうはっきりした色合いは存在を目立たせてくれて、いいかも知れない」

「そんなに目立ちたくない」

 注目を浴びるのは苦手だ。いつもは一緒にいる月香が人々の耳目を集めてくれるので、その影にいて安心出来ていたのに。


「いいじゃない。せっかくのお祭りなんだから、注目を集めるべきよ」

 人見知りではないが引っ込み思案な螢月の心中を知りつつも、この襦裙は螢月にとても似合うし、注目されるだろう、と母は嬉しげな笑みを浮かべた。そんな母の様子を見て、螢月も照れ臭そうに微笑んだ。


「さあ、座って。髪を結ってあげるわ」

「自分で出来るけど」

 にこにこと笑いながら椅子を示す母に、螢月は肩を竦める。

 駄目よ、と軽く睨まれた。

「せっかく素敵な襦裙を着ているのだから、いつもの括り髪じゃもったいないでしょう」

 ほらほら、と急かされ、螢月は仕方なく腰を下ろした。


 母に髪を結ってもらうなんて、いつ以来のことだろうか。少なくとも十年は昔のことのように思う。

「この飾り紐も色が合ってよかったわね」

 碧い玉のついたそれを編んだ髪に巻きつけながら母が笑う。

 螢月もそう思う。そして、もしかすると鴛翔は、この玉の色に合わせて襦裙の色を選んでくれたのではなかろうか、と思えた。


 支度が整ったので、母は螢月をその場に立たせる。そしてぐるりと一周して様子を確かめてから、また嬉しげで満足そうな笑みを浮かべた。

「綺麗よ、螢月」

 身内からであっても、賞賛の言葉はどうにも慣れない。螢月は頬を染めてはにかんだ。


「母さんも会ってみたかったわ、その人に」

 盥の残り水を外に撒いてしまいながら、母は言った。

「どうして?」

 過去に行き倒れている貴人を助けては嫌な目に遭わされたこともあり、母は手当てをすることをあまり快く思っていない。それでも螢月がやめないので、助けるときは必ず父を伴って行くこと、という約束をさせられている。だから、こんなことを言われるとは思わなかった。


 ちょっと驚いていると、母は螢月の頬へ手を伸ばした。

「あなたがね、とても娘らしい表情をしているから」

 優しく囁くように告げられた言葉に、螢月は首を傾げて瞬く。しかしすぐに意味に気づき、頬を染めて視線を逸らした。

「そういうのじゃ、ないから!」

 否定の言葉を吐き出すと、楽しげに笑われた。

「でも、素敵な人だったのでしょう?」

「そっ……っ、わからないわよ」

 言い返しながら、頬が熱くなってきていることに気づく。きっと赤くなっているのだ。


 鴛翔が素敵な人かどうかなど螢月にはわからない。けれど、身分に胡坐を掻いた横柄さがなく、真面目で誠実そうな人柄に好感は抱いていた。

 しかし、いくら螢月がそう感じていたとしても、都人の彼とは二度と会うことはないだろうし、そもそも親しくなれるような身分ではない。あの数日間だけの関係だったのだ。


 そう思って螢月が知らずうちに溜め息を零していると、母がもう一度頬に触れてきた。

 顔を上げさせられ、正面から見つめられる。

「螢月。あなたに話しておかなければならないことがあるの」

 母の声は静かに、けれど逃げるのを許さないような強さを含んで、ゆっくりと言い含めるように発せられた。その雰囲気に飲まれ、問い返す螢月の声も緊張を孕む。


「明日のお昼、お父さんが戻ったら、ゆっくり話しましょう」

 父はまた炭焼き作業に入る為に、いつもの小屋で下準備をしている。薬草の注文も入っていたので、そちらの準備もあって今夜はあちらに泊るようだ。

「だから難しい話は明日よ。今夜はお祭りを楽しんでいらっしゃい」

 そう言って母は表情を緩ませ、小遣いをくれた。月香に持って行かれてしまったので、螢月は遊びに行く軍資金がなかったのだ。


 外でパパンと爆竹の音がした。祭りが始まる時刻になったのだ。

 その音を聞いた母の優しい笑顔に送り出され、螢月は山を下りた。



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