第25話 主従



 世太子が賤民の娘を正妃に迎えたいと考えているらしいという話は、あっという間に王宮中に広まった

 運よくご寵愛を賜って側妃に、などと夢想していた女官達は悔しがり、いやまだ希望はある、と前向きな者など様々だったが、兎にも角にも大騒ぎになったのは確かなことだ。

 表立っては見えないけれど、確実に騒動となっているその様子を、鴛翔えんしょうは呆れたように眺めていた。


 溜まった書状に目を通しながら溜め息を零した鴛翔の様子に、隣で整理を手伝っていた潤啓じゅんけいは顔を上げる。

「如何なさいました?」

「いや……。女というのは、どうにもかしましいものだな」

 眉間に皺を刻みながら零されたその言葉に、潤啓は微かに笑う。

「此度のことに関しては、女性だけではありませんでしょう」

「まあ、な」

 確かにその通りだ。後宮の女達だけではなく、あわよくば縁戚に、と考えていた年頃の娘を持つ貴族達は落胆と腹立たしさを抱えて煩悶し、そちらも非常に騒がしい。


「お前はどうなんだ?」

 話を振られた潤啓はもう一度顔を上げる。

「お前の妹とも、そういう話が出ていた筈だが」

 ああ、と潤啓は笑う。

 鴛翔と年齢の近い貴族の娘達は皆将来の妃嬪として目されていた。高官を輩出してきた家柄のじょ家の娘である虹児こうじも、その有力候補として名前が挙がっていたのだ。

「そういう話はもちろん頂いておりましたし、先代の祖父も乗り気ではありましたけれど、うちの虹児は跳ねっ返りすぎて……とてもお傍になど上げられませんよ」

 肩を竦めて溜め息を零し、苦笑する。

 ふうん、と頷きつつ、鴛翔は最後の書状に印章を押した。


「そういえば、公主様とは如何でございますか?」

「如何、とは?」

 裁可の終わった書状の山を纏めながら、鴛翔は首を傾げる。

「仲良くされておられますか、という意味です」

「あぁ……」

 そこでなんとも言えない表情になったので、潤啓は不思議そうに瞬いた。

「正直なところ、よくわからぬ」

 憮然とした表情で零されるので、おや、と潤啓は苦笑する。

「まだ女性は苦手ですか」

「そうだな。特にああして、媚びているというか、自分が女であることを前面に出して、着飾っているような女はな……」


 数日前に帰った鴛翔に、王の娘として紹介された少女は確かに美しい容貌で、愛らしく笑む姿は非常に魅力的に見えただろう。そんな娘に可愛らしく甘えられたら、普段は厳格な王が相好を崩してしまうのも頷ける。


 美しく装って男性を惹きつけ、自分を庇護してくれる存在を見つけようと考えるのは、膂力ちからのない女性が出来得る最大限の自衛手段なのだろう。それが仕方のないことなのだとわかっていても、鴛翔は昔からそういう女性が苦手だった。

 しかし残念なことに、鴛翔のまわりにはそういう女性しかいなかった。年上の女官も、同じ年頃の少女達も、誰も彼もが鴛翔に気に入られようと媚びて来ていたのだ。

 そういう女性が嫌で嫌で、同時に恐ろしくて堪らなかった。

 鴛翔も成熟した男だ。性的な欲求がないわけでは決してないが、どうしても、そういう女性達に近づきたくはなかった。


 けれど、彼女は――螢月けいげつは、そういう女性達とはまったく違っていた。

 媚びた様子は一切なく、詳しい身分を明かさない不審極まりないだろう鴛翔に対しても、純粋に身を案じて気遣ってくれていたし、礼だと言っても高価なものは受け取ろうとはしなかった。その様子にとても好感が持てたのだ。

 態度の他に、その声もいいと思った。高すぎず低すぎず、爽やかなよく通る声だった。その声が優しく気遣ってくれて、時には明るく笑う。それがとても好きだと思えた。


 螢月のことを思い出して知らずうちに溜め息を零すと、気づいた潤啓が笑みを浮かべる。

「そういえば、伺いましたよ。殿下の初恋」

 その言葉に鴛翔は思わず目を瞠った。

「初恋?」

「なにを驚かれているんですか。伴侶にしたいと思えるくらいに恋しい女性を見つけられたというのなら、初恋になるのではないですか? それとも、なにか打算でそう思われたのですか?」

 呆れたような口調で問われ、鴛翔は僅かに首を振る。

「打算ではないが……そう呼ぶものなのか」

「そうだと思いますよ。だってそんな気持ちになられたの、初めてでしょう?」

 確かにそうだ。不快でしょうがなかった女性というものに対して、傍にいて欲しいという感情を抱いたことは今まで一度としてなかった。


 そうか、と鴛翔は納得した。これが『恋』というものなのか。

 一人頷いている鴛翔の様子に、潤啓は晴れやかな笑みを浮かべた。

「殿下のお心を射止める女性が現れたことは、僕としても喜ばしい限りです」

「そうか」

「はい。これでもうをされることも減るでしょうから」

 からりと笑われ、鴛翔も思わず苦笑した。


 年頃になっても女性に興味を持たない鴛翔が、実は男性の方が好きなのではないか、と噂され始め、その相手の最有力候補として名前が挙がっていたのが潤啓なのだ。理由としては、鴛翔が彼を重用していたことに因る。

 本来は武官である筈の潤啓をこうして執務室へ入れ、傍らで書状の整理をさせているのだから、片時も離れていたくないのだな、とあらぬ妄想を持った者がいても仕方がないのかも知れない。

 もちろんこうしていることにはなんの含みもなく、ただ単に、鴛翔につけられた侍従よりも潤啓の方が管理能力に優れていたからだ。


「そういえば、先月の治水工事の帳簿は」

「こちらにございます」

 確認しようと思って立ち上がると、すぐに棚から帳簿を取って来てくれる。

「お前、やはり侍従に転向しないか?」

 受け取りながら苦笑した。元々いる侍従も決して能力が低くはないのだが、潤啓のこうした記憶力と整理技術には遠く及ばないのだ。

 能力を買ってそう言ってくれているのは大変喜ばしいことだ。けれど潤啓は、即答で「お断り申し上げます」とはっきりと言った。


「侍従になどなったら、殿下をお守りすることが叶いません」

 明瞭な答えに鴛翔も頷いた。

 細身で表情も口調も柔らかい潤啓は、ただの優男と侮られることもしばしばだが、衛士府の中でも卓越した剣技を誇る。体術も得意としているので、多対一の殴り合いでも負けなしだった。

 潤啓がそこまで武術を極めたのは、ただひとつ、鴛翔を守ることを目的としてのことだ。

 後宮などでの私生活を含め、内向きのことを補佐する内務官である侍従は、視察などに同行することはあっても、武器を携行することはない。もしも暴漢に襲われたときに丸腰では、それだけで反撃の手が遅れてしまう。そんなのは断じて嫌だった。


 ふう、と小さく息をつくと、潤啓は帳簿を捲っている鴛翔の前へ跪く。

「……どうした」

「僕の刃は、殿下をお守りする為だけに研いで参りました。それなのに、あのような事態になりまして――申し訳もございません」

 深く叩頭する様子に、ああ、と鴛翔は頷いた。

「此度のことはお前の責ではない。一切気に病むな」

「しかし」

「お前の責ではないと言った。何度も言わせるな」

 ぴしゃりと言いつけて顔を上げさせる。それでも潤啓が複雑な表情をしているので、鴛翔は明るく笑って見せた。


「襲撃を受けて悪いことばかりでもなかった。怪我を負ったお陰で、螢月殿に出会えたのだからな」

 そんなことを言われるので、潤啓は呆気に取られる。けれど、鴛翔がそれを冗談を言っているわけではなさそうだとわかると、苦笑するしかない。

「では、僕は――いや、亡くなった祖父は、殿下の月下老人縁結びの神だったということですね」

「そうだな」

 まさに老人だな、と笑うと、そこで潤啓もようやく普段通りの笑みを見せた。


「ところで潤啓」

 空気が和んだところで、鴛翔は改まって呼びかける。

 はい、と頷いて向き直った潤啓は、世太子の表情が硬く緊張を含んでいることにすぐに気づいた。

 なにか重大な命でも下されるのだろうか、とこちらも緊張して待っていると、鴛翔の口からはまったく想像していなかった言葉が発せられた。


「婚姻を申し込むというのは、どうすればいいのだろうか?」



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