第23話 帰還
後宮の奥に私室を宛がわれた月香は、直接その様子を目にしたわけではなかったが、表が騒がしいので不思議に思い、
「世太子殿下が戻られたのですわ」
すっかり馴染んだ年嵩の女官は、そう答えて笑みを浮かべた。
「ひと月半程前に、鍛錬と視察を兼ねてお出かけになられたのですけれど、一時行方がわからなくなられて……少ししてお姿を現されたそうなのですけれど、酷いお怪我をなさっていらしたとかで」
「まあ……」
「そのお怪我を治療なさってご快復されたので、本日こちらにお戻りになられたそうです」
喜ばしいことだ、と言う美峰に、月香も頷いた。
「ご無事でよかったですね」
「然様でございますね。公主様にはお兄様にあたられる方ですし」
「お兄様、ですか……」
言われてみればそうだろう。世太子と言えば次の国王だ。つまりは、現国王
それならば、近々どうにかして機会を設けて、顔を合わせてみなければ。突然妹が出来たとなると戸惑うだろうし、認めて親しくしてもらえなければ困る。
そんな話をしていたからか、王から表への呼び出しがあった。
「きっと世太子殿下とお引き合わせなさろうということでしょう」
そういうことなのだろう、と月香も頷き、身支度を整えてくれるように女官達に言いつけた。
用意してもらった紅白を重ねた美しい
差し向けられた鏡の中を覗き込めば、そこには誰もが息を飲むだろう美貌の少女の姿があった。月香は満足気に微笑む。
「今日もとてもお美しくていらっしゃいますね」
襟の捩れを直しながら、一緒に鏡を覗き込んだ美峰が微笑んだ。
そうかしら、と月香は照れ臭そうに笑いながらも、当然のこととして心中ではにんまりと目を細める。
(こんなにも可愛い妹が出来たって、お兄様には喜んで頂かなくちゃ)
安寧とした暮らしを手に入れる為にも、味方となってくれる人はいくらでも増やしておかなければならない。次の王となる人などその最たるものではないか――そう考えていた矢先の呼び出しだったので、まったくなんとも有難いことだ。
この王宮で暮らし始めて半月以上が経ったが、味方となる者はまだ少ないと思う。
自分に仕えてくれている女官達の何人かでさえも、まだ少し線を引いている様子が見受けられる。王后の
宮廷の方の政務官達などはさっぱりだ。まだ会ってすらいない。
けれど、いずれ必ず重臣達を味方につけておく必要が出て来るに決まっている。彼等の判断ひとつで、王でさえも首を挿げ替えられてしまうことがあることくらいは、月香がいくら田舎育ちの賤民でも知っていることだ。
優雅な暮らしを手に入れる為には、それなりの労力を支払わなければならないものだと、月香は本能的に悟っていた。
けれどこの程度は、山を巡って草を毟ったり、畑を耕したりすることに比べれば、どうということはない。言葉を選んでにこにこと愛想よく接していれば、大抵は心を許してくれる。こちらの方が今までの生活よりもずっと楽に感じられた。
自分は案外策士向きだったのだろう、と月香は鏡の中の自分を見つめながら思った。
政務の場である表の宮殿に足を踏み入れるのは、初めてのことだ。
少し緊張しながら案内された広間に足を踏み入れると、官服を纏ったたくさんの男性達が並んでいた。
「おお、
壇上の玉座に腰かけていた鴛祈は、月香が現れたことに気づいて手招く。その隣には朧玉の姿もあった。
居並ぶ廷臣達もその声に呼応して振り返り、月香の姿を見つける。明らかに好奇の視線を向ける者や、声を低めてひそひそと囁き合う者の姿もある。
それらのすべてを撥ね退けるように堂々たる笑みを浮かべ、つけてもらった礼法指導の師から習った所作で優美な礼を取り、壇下まで歩み寄る。そこには一人の青年の姿が既にあった。少し埃っぽい旅装姿であることから、彼が戻ったばかりの世太子なのだろう。
「この娘は萌梅という」
鴛祈が月香のことをそう紹介すると、青年は振り返る。
「萌梅?」
首を傾げながら見つめられたので、月香は頭を下げた。
「萌梅と申します――お兄様」
その言葉に青年はちょっとだけ双眸を瞠った。鴛祈が嬉しそうに頷いている。
「――…あぁ、陛下がずっと捜しておられた」
思い至ったように青年が呟くと、鴛祈は更に大きく頷いた。
「そうだ。その娘だ」
「然様でございましたか」
納得したように頷いた青年は、月香へと向き直る。
「
「はい、お兄様」
頷きながら、月香は愛らしく微笑んで見せる。しかし、彼はその笑顔に特に魅力は感じなかったようで、うん、と頷いただけで視線を逸らされてしまった。
あら、と月香は少しだけ怪訝に思った。大抵の男の人は、月香がこうして微笑みかければ喜ぶし、商品を値引きしてくれたり、荷物を運ぶのを手伝ってくれたり、とても優しくしてくれたというのに。
(お堅い人なのだわ)
面白味のない男だ、と月香は思った。
軽薄な男は嫌なものだが、女が愛想よく応じてやっているのを無視する男も嫌なものだ。こういう場合は微笑み返すくらいするべきではないか。
今までずっと、微笑みひとつで男性達からちやほやされてきた月香にとって、こういう態度をされるのは実に面白くない。この男にはなるべく関わらないでいよう、と思った。
そんな月香の心中など知らない鴛翔は、ひとつ大きく息を吐き出すと、まっすぐに玉座の国王を見上げた。
「戻って早々こんなことを申し上げるのも憚られるとは思いますが――陛下にひとつ、聞き入れて頂きたい願いがございます」
改まった物言いに、鴛祈は僅かに双眸を瞠るが、すぐに姿勢を正して「申してみよ」と答えた。
鴛翔は頷く。
「既にお聞き及びかとは存じますが、わたしは酷い怪我を負い、山中で行き倒れておりました。その折、通りがかった親切な娘に助けられ、なんとか一命を取り留めたのです」
「ああ、その話は聞いておる」
先に早馬で届けられていた状況説明の文にそう書かれていた。大事な世太子が一応は無事であったことに安堵し、その村娘に感謝もしたものだった。
「その娘には褒賞を出してやらねばな。金もいいが、若い娘なら絹や玉――」
なにか支度させようと考え始めた鴛祈を、鴛翔は「いいえ、陛下」と慌てて留める。
そうして、もう一度大きく息を吐き出すと、緊張した面持ちで見据えてきた。
「わたしはその娘を、伴侶に迎えたいと思いました」
しっかりと告げられた言葉に、その場にいた者達は一様に驚き、思わず驚嘆に揺れる声を漏らした。
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