二章

第12話 不安



 月香げっかが戻らない。

 いつもなら二日も経てば何事もなかったように戻って来て、変わらずに我儘を言ったりして、螢月けいげつを困らせつつも安心させているというのに。

 母は気にしていないような態度をしていたが、昨夜からまた調子を崩してしまった。今は静かに眠っているようなので、螢月は予定通りに父の炭焼き小屋へと向かった。


 炭焼きはもう既に最終工程に入っている。明日あたりには窯出しをして、きちんと冷えたら売りに行けるようになる。

 街の商店に卸しに行くのは基本的には父がやってくれているが、今回は月香のこともある。納品のときまでに戻らないようなら、螢月も一緒に行こうと思っていた。

(取り敢えず、明日は街に行ってみよう)

 明玉めいぎょくのところに行くと言ったきり帰っていないのだから、まだ芙蓉楼ふようろうにいるのだろう。

 あそこは堅気の若い娘がいるような場所ではないというのに、華やかさだけに惹かれて頻繁に出入りして、商売の邪魔になっているに決まっている。そろそろはっきりとやめさせないといけない。

 困った子だわ、と溜め息を零しながら、窯の前で灰を掻いている父を呼んだ。


「いつものことだからあまり気にしていなかったんだけど、月香が明玉さんのところに行ったきり帰って来てないの」

 素直に謝って伝えると、父の表情が僅かに険しくなる。

「いつからだ」

鴛翔えんしょうさんを助けた日からだから……七日」

 父の表情には険しさの他に驚きと怒りが滲んだ。

 ごめんなさい、と螢月は謝る。

「遅いなとは思っていたの。でも、もしかすると夜には帰って来るかも知れないし、と先送りしていたら七日も経ってしまってて」

 二、三日程度ではどうにも感じなくなってしまうほどに、月香の家出は頻繁だった。行き先はだいたい明玉のいる芙蓉楼か、親友である夕鈴ゆうりんそん家のどちらかと決まっていたので、あまり心配せずとも問題はなかったのだ。

 ただ、五日以上も帰らないのは、初めてのことだった。


 ふう、と螢月は溜め息を零した。

「取り敢えずね、明日、芙蓉楼さんに行ってみるわ。蓬も頼まれていたし」

「俺が行く」

「父さんだとすぐに喧嘩になるでしょう。七日もいたのだったら迷惑をかけたのはうちなんだから、喧嘩じゃなくて、お詫びをしなくちゃいけないところだし……」

 月香を妓女として引き取ろうと企んでいることもあり、芙蓉楼の店主と父は物凄く仲が悪い。顔を合わせようものなら刺々しい言葉の応酬になる。

 今すぐにでも殴り込みに行きそうな様子の父を押し留め、螢月がしっかりと説明すると、それは尤もな話だと思ったのか、父はひとつ大きく息を吐き出した。


「あと、今夜は帰って来られそう?」

 なんとか気分を落ち着けようとしているらしい父の様子を窺いながら、母が昨日からまた少し体調を崩して寝ついている話をした。

 心配顔になって頷きかけた父だったが、すぐに申し訳なさそうに首を振る。

「あいつがいる」

 言われ、思い至った螢月は頷いた。

 盗まれて困るような高価なものは置いていないが、収入源である木炭や竹炭に生薬も置いてある。どれも準備に手間を要するものなのでなくせば懐が痛いし、なにより燃えやすいものばかりの小屋なので、間違って火でも点いたら大事だ。

 鴛翔が悪い人間だとは思わないが、結局のところ素性のよくわからない余所者なので、一人で放っておくのは少々都合が悪い。


 螢月は少し考え、ぽんと手を打つ。

「じゃあ、今夜は私がいるから」

 途端に父は先程よりも険しい顔になる。

 父の表情の理由はおおいにわかる。年頃の男女が一晩二人きりでいるなどと、褒められる状況ではない。

 しかし、ここ数日過ごした中で螢月は、鴛翔に対して妙な信用のようなものを抱いている。彼はそういうことをするような人ではない、と根拠はないがはっきりとしたものを感じていた。

「大丈夫よ。明け方まで起きていることくらい出来るし、寝るときは納戸に入れば戸を閉められるじゃない?」

 だからすぐにそんなことを言えたのだが、父はそれが気に入らなかったらしい。怒ったような表情でむっつりと黙り込んでしまう。

 父の心配もわかるつもりだが、体調を崩している母のことを考えると、やはり父には早急に家に戻って欲しいところではある。普段から素っ気ない態度でいる父ではあるが、母を大事にしていて、仲がいいのも確かなことなのだ。


 どうやったら納得させられるだろうか、と思っていると、杖代わりに棒を突いて鴛翔が外から戻って来た。

「鴛翔さん、何処に行っていたんですか?」

 怪我人なのに無理をして、と驚いて螢月は駆け寄るが、当の鴛翔は何事もなかったかのように提げてきた桶を見せる。

「そこの沢で魚を釣って来たんだ」

 桶の中には川魚が四匹ほど泳いでいる。

「でも、傷がまだ治っていないのに……」

「竿を持って座っているだけだ、問題ない。寝てばかりいても身体が鈍るから」

 まだ痛みはあるが、身動きが取れないほどではなくなったのだという。傷口もだいぶ乾いて固まってきているらしい。

 それはよかった、と安堵しつつ、背後から感じる父の視線に身を竦めた。話すことすらもいけないとでも言うのか。


 父は最初から螢月が鴛翔に近づくのをよしとせず、様子を見に来ても、すぐに用事を言いつけて引き離してしまう。

 別に媚を売っているとか、そういうつもりもないし、怪我の様子を案じるくらい普通のことだろうに、と思うのだが、父は気に入らないらしい。

(そういえば、初めの日からなんか鴛翔さんに冷たかったのよね)

 釣果の報告をしている鴛翔と、それを仏頂面で聞いている父の様子を見ながら、変なの、と思う。父は昔からその容貌と相俟って愛想が極端に悪いが、初対面の人を邪険にするほどには酷くなかった。


 考えても仕方がない。寡黙な父の考えていることは昔からよくわからないのだ。

 気にせずに昼食の支度を始める。鴛翔がせっかく釣って来てくれた魚があるので、あれを調理しよう。

 ほんの少し塩を振って素焼きにするか、香草と一緒に蒸し焼きにするか。鱒ならどういう食べ方をしてもまあまあ美味しい筈だ。


 父は素焼きの方が好きだが、鴛翔はどうだろうか。好みを訊いてみよう、と振り返ると、丁度鴛翔がやって来るところだった。

「お魚、どう食べるのが好きですか?」

「螢月殿に任せる」

 差し出された桶を受け取ると、先程より魚が減っていた。

守月しゅげつ殿にお渡しした」

 あら、と首を傾げかけると、理由を口にされた。

「奥方――螢月殿の母御がご不調なのだろう? 精がつけばいいと思ってな」

「それはありがとうございます」

「いや。守月殿にも螢月殿にも大変に世話になっているからな」

 これくらいではまったく礼になどならないだろうが、と苦笑されるが、そんなことはない。そういう気持ちを持ってくれただけでも嬉しいものだ。


 やはりいい人だなぁ、と感心しながら、それでは父は魚を持って帰宅したのだろうということに思い至る。

 あれだけ不機嫌そうにしていたのに、と首を傾げながら鴛翔に尋ねると、そうだ、と答えが返った。


「――…え、螢月殿が今夜はこちらに?」

 泊まることを説明すると、鴛翔はなんともいえない複雑な表情をした。

「はい。食事のこともありますし」

 どうやら煮炊きの経験がないらしい鴛翔なので、食事の支度はすべて父がやっていた。その父が今夜はいないとなると、彼の夕飯を用意してやる者がいなくなってしまう。

 たかが一食くらい、と思わないところもないが、怪我を治す為にはしっかりと食べることも重要なのだし、三食きちんと食べさせてやりたい。

「しかし……年頃の娘が、男と二人きりで夜を明かすのは、その……あまり褒められたことではあるまい」

 食事の支度を始める螢月に、鴛翔は遠慮がちに声をかけた。

 その言い回しに螢月は双眸を見開き、それから可笑しくなってちょっとだけ声を出して笑った。


(やっぱりこの人、いい人だわ)

 今まで助けた怪我人達とは明らかに違う。きっととても真面目な人なのだ。

「そういうことを仰ってくださるってことは、私に変なことをしようって気はないんでしょう?」

 笑われたことに憮然とした様子になっている鴛翔に、螢月は微笑む。

 当たり前だ、と返されるのへ、笑いながら「だったらいいじゃないですか」と頷き返した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る