第7話 妓楼



 村から麓の街までは、月香げっかの足でも半刻もあれば辿り着く。

 苛立ちを込めて蒸し餅をむっしゃむっしゃと噛み締めながら下った月香は、陽がとっぷりと暮れてしまう前に妓楼『芙蓉楼ふようろう』の裏口へと立っていた。


「ごめんください」

 夜の営業時間まではほんの僅かな時間がある筈だ。声をかけても問題あるまい。

 宴会料理の仕込みに忙しそうな料理女の一人が月香に気づき、あら、と声を上げた。

「よかったわね。今夜は明玉めいぎょくさんお呼びがかかってないのよ」

 自分の部屋にいるだろう、と言われ、ついでに夕食を運んで行くように頼まれる。了承して膳を受け取り、明玉の部屋を目指した。


 歌の上手として有名で人気があるとはいっても、まだまだ新入りに近い地位の明玉の部屋は小ぢんまりとしている。しかも四人部屋だ。

 戸を叩いて中を覗くと、明玉はいつも高く結い上げている髪を下ろし、窓辺で歌を口ずさんでいるところだった。

「あら、いらっしゃい」

 やって来た月香の姿を認めた明玉はふんわりと笑う。

「変な時間に来たのね。どうしたの?」

「そうなの! 聞いてくれる!?」

 握り拳を作って座り込み、明玉が食事をしている間、今日あった腹立たしい出来事の数々を語り始める。明玉はゆっくりと咀嚼しながら、興奮気味に捲し立てられる月香の話に相槌を打ち、静かに一通りの話を聞いてやった。


 一心不乱というべきか、とにかく一気に語り尽くした月香にお茶を差し出してやりながら、ふむふむ、と明玉は頷いた。

「月香は蒸し餅が好きだものねぇ。怒りたくもなるわよね」

「そうよ!」

 お茶を飲み干して憤慨する月香に、でも、と明玉は静かに言った。

螢月けいげつそんさんのところにお餅を持って行ったのも、仕方がないことだと思うわよ」

「なんで!?」

「だって、お野菜とお米もたくさん頂いたのでしょう? お礼はきちんとしなくちゃ」

「でもこの前、夕鈴ゆうりんがお腹壊したときに、うちからお薬あげたんだもの。負い目はないわ」

 あのときの代金は貰っていなかった筈だ。いくら村長の可愛がっている末娘の危機だったからといって、対価もなしにそんなことをしていては舐められるに決まっている。

 父は変なところで人が好いから困るのだ。いつかきっと狡賢い人に騙されて、家族全員が困ったことになるに違いない。


「それでもね、そういうことはきちんとしておかなきゃならないのよ。ああいう小さな村の中のことだから、一度変な目で見られたら、ずぅっとついて回るんだから」

 噛んで含めるような口調で、明玉は丁寧に諭した。

 それでも納得出来ない月香は、むうっと唇を尖らせて膨れっ面になる。

「特にあなたの家は、新参者だから……余計に気を遣っているのでしょう」

 ああいう閉鎖的な環境では、余所者は得てして嫌われる。それを上手く切り抜けてやっていかないと、すぐに生活が立ち行かなくなる。そういう場所なのだ。

 そんなことくらいは月香でもわかるが、でもそれは月香が望んだ環境ではないし、それをこちらに押しつけないで欲しい。


 むくれ顔が直らない様子に苦笑しながら、明玉は食べ終わった膳を部屋の外へ出した。

「そういえば姐さん、今日はなんでお休みなの?」

 楽の音が聴こえ始めていることに気づき、月香は首を傾げる。いつもはその美しい歌声で宴に華を添えている筈だ。

「五日ほど前から風邪をひいていたのよ」

 その答えに、えっ、と月香は驚く。

 体調が悪いところに押しかけるなんてさすがに申し訳ない。料理女がなにも言っていなかったからわからなかった。

 思わずしゅんとすると、いいのよ、と明玉は笑う。

「喉の調子が治らないから歌えないっていうだけで、熱もとっくに下がっているの。気分も悪くないし」

 早くよくなるようにと薬湯も飲んでいるし、あと二、三日ほどでまた復帰出来る筈だ。

「芸妓失格よね。床入りはしない代わりに芸で売っているっていうのに、その商売道具を駄目にしてしまうんだもの」

 店主は何日も休んでいる明玉を責めない。それどころか、本調子になるまで静養しろ、と有難いことを言ってくれている。そう言わせる程度に普段からしっかり稼いで、妓楼に貢献しているからだ。それでもやはり心苦しい。

 ふう、と溜め息を零し、喉許に触れる。その仕種に、月香は妓女にもいろいろあるのだと感じ取った。


 月香も同じように溜め息を零し、僅かに身動ぐと、胸許で小さな音が鳴った。

「――…あ、そうだ」

 思い出して懐を開き、母の部屋から持ち出していた手紙を差し出す。

「姐さん、字は読める?」

「一応読めるわよ。お客様とやり取りしなくちゃならないときもありますからね」

「じゃあ、これ読んでくれる?」

「なぁに?」

 受け取りながら首を傾げ、明玉は笑う。

「母さんのものだと思うんだけど……もしかしたら、恋文じゃないかなって」

「あら!」

 明玉は瞳をきらりとさせるが、ほんの少しだけ躊躇いを見せる。

「でもぉ……それはやっぱり、失礼じゃないかなって部分もないかしら?」

 勝手に人の手紙を読むこともどうかと思うが、しかもそれが愛の言葉の綴られた甘い甘い手紙だったりしたら――自分だったら恥ずかしくて泣きたくなる、と明玉は首を振る。

 けれど、手紙をちらちらと横目に見ているので、興味はあるのだ。


 もうひと押しだわ、と月香は身を乗り出す。

「そりゃあね、自分の親の甘ったるい愛の告白なんて恥ずかしくて堪らないけれど、大事に大事にしまっているくらいなのだから……ね、内容が気になると思わない?」

 明玉はちらりと手紙に視線を落とす。月香は「そう思うでしょう」と更に押した。

 あの無口寡黙で、時折置き物かなにかではないかとさえ思えるような父が、いったいどんなことを母に宛てて書いたというのだろうか。それがとても気になる。



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