第6話 手紙
母と姉の笑い声が聞こえる。
なによ、と
(いっつも私を除け者にして、二人で楽しくしちゃって!)
腹立たしく思いながら立ち上がり、戸棚を開ける。こういう気分のときは、掃除をするに限る。部屋の中が綺麗になるとすっきりするのだから。
だが、自分の持ち物が入れてある場所は、先日片付けたばかりでなにもない。姉は元々物欲のあまりない人だから、服が何枚かある程度で片づけ甲斐もない。
片付けが出来ないとなると余計に腹立たしく思えて、眉間に皺を寄せて地団駄を踏む。
仕方がない、だったら拭き掃除をしよう、と思い立ち、母と姉に会わないように隣の部屋に抜けて裏口へ行き、桶に水を汲んで戻る。
まずは両親の寝室だ。最近ずっと母が寝込んでいたので、あまり埃を立てるのはよくないと、隅々までしっかりとは出来ていなかったのだ。きっとあの戸棚の上とか、埃が溜まっているに違いない。
雑巾をしっかり絞って戸棚の上を覗き込むと――ほら、あった。月香はにんまりだ。
「……まあ、真っ黒!」
さっとひと拭きした雑巾が黒く汚れたのを見て、ますますにんまりと笑う。
「こんなに汚していては駄目よね。すぐに綺麗にしなくちゃ」
うふふ、と笑いながら袖を捲くり、嬉々として戸棚の天板を拭き始める。
月香は綺麗なものが好きだ。だから家の中が綺麗に片付いているのも好きなのだ。
きちんと整理整頓されていて、新品の綺麗なものがあれば一番いいのだが、古くて傷んでいるものでも磨き上げてみすぼらしさが軽減していれば、取り敢えずは満足する。
だからこそ、気分が塞ぎ込んでいるときなどは、家中を無心で磨き上げることがなによりも心が落ち着くし、楽しくなってくる。綺麗になった部屋を見渡せば、それだけで嫌な気分を忘れることが出来た。
そんなこんなで今日も大掃除だ。
姉が母の櫛を譲ってくれないことも、
いつしか蓬のいい匂いが漂って来ていた。
姉は約束通りに蒸し餅を作ってくれているのだ。
そろそろ出来上がるかも知れない。その前に掃除を終わらせてしまおう――と手を動かしたときに、奥の方にあった布包みを叩き落としてしまった。
「いけない……っ」
きっと母の物だ。さっと顔色を変えて屈み、念の為、包みを開いてみる。壊れるようなものが入っていたら大変だ。
布の中身は綺麗な箱だった。男性というよりは女性的な印象の細工だったので、やはり母の物なのだ。
「中身は……?」
軽く揺すってみるとカタカタと音がするので、慎重に開けて見る。もしも壊れていたりしたら、さすがに謝らなければならない。それくらいの分別はある。
「……
中身は綺麗な細工の簪と、古く黄ばんで
簪は三日月と花に鷺らしき鳥のいる意匠の見事な細工で、姉が持っている櫛と同じ図案であることからも、母の持ち物なのだとわかる。母がまだ『お嬢様』だった頃に持っていたものは、その名に因んで月と蘭の花を用いた図案のものだと聞いたことがある。
父と一緒になり、実家から離れてしまったあと、入り用になったときに少しずつ金に換えていって、今はもうほとんど残っていないのだという。これが最後のひとつになるのではなかろうか。
(この簪、私にくれないかしら?)
姉には櫛をやったのだから、月香にはこの簪をくれないものだろうか。母に似たこの美しい黒髪には、白翡翠を使っているこの簪はよく似合うに決まっている。
そのうち頼んでみよう、と思いながら、落とした衝撃でこの細工が壊れていないか、箱の中に欠片が散ったりしていないかと確認する。なにもないところを見ると、まったくの無傷だったようだ。
安心して箱に戻しつつ、草臥れた紙を持ち上げる。
「……もしかして、父さんからの恋文とか?」
こんなところにしまってあったところを見ると、物凄く大切なものに違いない。
駆け落ちして一緒になったということくらいしか両親の馴れ初めは知らないので、おおいに好奇心が
そういった色恋の話題に興味が強い年頃の月香は、なんだか楽しくなってきてしまって、折り畳まれたそれを開いてみる――が、簡単に読めるものではなかった。
読み書きをちゃんと習っておけばよかったか、と少々後悔する。こんな
なにが書いてあるかなどと、母に直接訊くわけにはいかない。
あの生真面目な姉に読んでくれ、などとも言えない。怒られるに決まっている。
けれど、偶然目にしたこの『母の秘密』はなんとなく知りたい。
少し悩んだ末に、月香はその手紙をそっと懐に隠し、簪だけを戻した箱はもう一度包み直して元通りにしまっておくことにした。
残りの掃除を済ませて雑巾と桶を片付けて来ると、何事もなかったかのように母の許へ顔を出す。
「あら、やっと出て来た」
気づいた母はそう言って笑う。
「螢月が蒸し餅を作ってくれたわよ。まだ温かいから、硬くなる前に食べてしまいなさい」
「うん」
頷きながら椅子に腰を下ろし、あたりを見回す。
「姉さんは?」
さっきまで笑い声の聞こえていた姉の姿がない。
「お餅半分持って、
「えー!」
思わず叫び、お茶を持って来てくれた母を睨む。
「私のお餅!」
「まだこんなにあるじゃない」
「でも酷い!」
怒って机を叩くと、母は呆れたように溜め息を零した。
「……もう。食い意地が張っているんだから」
その口振りに月香はますます腹を立てる。
「姉さんは私に作ってくれるって言った! 父さんと母さんの分と、私の分! それをなんで半分も持って行っちゃうの!」
ひどい、と叫ぶと、母は僅かに眉間に皺を寄せ、困っているというより苛立っているような表情で月香を見つめる。
「母さんの分も食べていいから、もう我儘言うのはよしなさい。十五にもなって」
我儘なんかじゃない。姉が月香の為に作ってくれると言っていたのだから、月香が食べてなにが悪いというのだ。
約束を破った姉が悪いのだ、と腹が立ち、蒸し餅をガバッと両手で掴めるだけ掴む。
「月香!」
行儀が悪いどころの問題ではない態度を示し、そのまま家を飛び出して行く後ろ姿に、母が大きく声をかけた。
「
呼び止める声を無視して走り出す。
そのあとはもう振り返りもしなかった。すれ違った隣人から挨拶されるのも無視して、村の外へと走って行く。
はあ、と溜め息を零したところで、
「どうしたの?」
戸口のところで疲れて表情をしている母へ、螢月は首を傾げる。
「月香が飛び出して行ったわ」
「えぇ?」
「明玉さんのところに行くって」
告げられた名前に螢月は顔を顰めて「またなの?」と呆れた。
明玉というのは元々はこの村にいた女性なのだが、数年前に家族の為に妓楼に買われて行き、今は麓の街に在る大きな妓楼で、美しい歌声が評判の妓女として名を馳せている。
その明玉に、月香は小さいときからとても懐いている。今でも月に一度は会いに行っているくらいだ。
妓楼に頻繁に出入りするなど、店主にも煙たがられそうなところだが、向こうは向こうで月香の美貌に目をつけているようで、言葉巧みに勧誘している様子だ。
もちろん父がそんなことを許すわけもなく、一度妓楼の主人と大きな喧嘩をしたくらいなのだが、美しいものが大好きな月香が妓女の華やかな様子に心惹かれていたこともあり、十六になったときに本人に選ばせるという約束事があったりもする。
だからこそ、そんな世界に行かせたくない両親は、青甄からの縁談に乗り気なのだ。結婚して家庭を持ってしまえば、妓楼の申し出など蹴ってしまえるだろう。
感情的に飛び出して行ったわりには行き先を告げて行ったので、一応は安心しておく。
いつものように、一日か二日経てば怒りも治まって、何事もなかったかのように帰って来るに違いない。
苦笑して頷き合い、夕飯の粥を炊く為に
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