第8話 疑念
色恋沙汰の話題は、年頃の
「ちょっとだけね」
「うん」
「ほんのり気が咎めるから、触りだけね」
「うんうん」
大きく頷くと、明玉はもう一度小さく咳払いをして、文面に目を落とした。
「
「たぶんそうね」
「蘭々、冬の気配が――」
蘭々、
冬の気配が濃くなってきたが、きみは健勝でいることだろうか。
行軍は順調だが、野営はさすがに寒くなってきた。風邪をひきそうだ。
お腹の子はどうだろう。
きみも子も、この寒さに震えてはいないだろうか。
健やかに生まれて来てくれることだけを唯々祈る。
少し気が早いと笑われそうだが、名前を考えた。
腹の子が息子だったら、慣例通り『
きみの名から一字取って、
我等二人の子らしくてよかろう。
娘だったら、思い出のあの樹に
嗚呼、蘭々。
早く戻ってきみを抱き締めたい。
きみの傍にいつも侍っている
憎らしくさえあるよ。
こんな狭量なわたしを許しておくれ。
最後までしっかりと読み終わってしまい、二人は思わず黙り込む。
文末に記されていた名は父のものではなかったし、それどころか、文中にあった『憎らしい男』こそが父の名だった。
「これ――…」
どういうことか、と悩み始めると、明玉が口を開いた。
「読んではいけないものだったのじゃないかしら、と思うの。今更だけど」
困惑気に零された言葉に対し、
予想していたものとは全然違っていて、戸惑いを隠せないのは事実で、そんなものを暴いてしまったことに対する後ろめたさと恐ろしさがあるのも事実だ。
(それに、父さんと母さんは駆け落ちしたんだって聞いてたのに……)
この手紙の内容とかなり違うのではなかろうか。
文面から推し測るに、蘭々こと月香の母である月蘭は、この鴛祈という名の手紙の主と一緒になる約束をしていて、お腹にその人との子供までいたことになる。
けれど、月鴛という名の兄も、萌梅という名の姉も、月香達にはいない。
ハッとして、ぽんと手を打つ。
「里子に出したんだわ!」
「ええ?」
突然の発言に明玉が目を瞠る。
「だって家にはこんな名前の兄さん姉さんはいないし。だとしたら、戦場に行っていたみたいだし、鴛祈という人に死なれた母さんは、女手一つでは育てられないから里子に出したのよ。それで父さんと一緒になったのだわ。でも、父さんのことが気に入らなかった実家の人達に反対されて、駆け落ちすることになったのよ」
これならほぼ辻褄が合うだろう、と笑うが、明玉が首を傾げる。
「でも月香。この字の雰囲気を見る限り、この人はきっといいお家の出の筈よ。そんなお家に嫁がれていたのなら、女手一つで育てられずってことはないと思うのだけど」
「じゃあ……」
どういうことだ、と言いかけたところでハッと気づいてしまい、言葉にするのをやめる。
「
月香の躊躇った言葉を明玉がはっきりと口にする。
思わずぎょっとした。心臓が変な鼓動を打つ。
確かに姉は、母には少しだけ似ているが、父にはまったく似ていない。
月香は母似ではあるが、父にも似ている。唇の肉が薄いところなどそっくりだろう。
そういったところを考えると、確かに姉は父以外の男の子供かも知れない――などという酷い結論に至る。
信じ難い月香は、まさか、と首を振った。
「いくらなんでも……それは、ないんじゃないかしら」
「わからないじゃない」
否定したい月香の言葉をぴしゃりと下し、明玉はもう一度手紙に目を向ける。その瞳は好奇心でいっぱいに輝いているように見えた。
「この鴛祈って人が亡くなって、月蘭さん達が一緒になったっていうのは当たりだと思うの。でも、やっぱり、螢月はこの鴛祈って人の子供だと思うわ」
「どうしてそう言い切るのよ」
「だって螢月はうちの村で生まれたから」
「だからなんだって言うの?」
そんなものは根拠になりはしない、と否定しようとするが、明玉は面白そうに目を細める。
「なんだってって、月蘭さんって今年三十五でしょう? 螢月が十八になったんだから、生まれたときはまだ十七くらいだったのよ。その前にもう一人子供がいたとしたら、あなたより下のときに産んだことになるわよ?」
少し無理があるのではなかろうか、と言われ、頭の中で素早く数を合わせてみる。
赤ん坊は母親のお腹の中で十月を過ごす。あの母の性格的に、子供を産んですぐに別の男と子供を作るとは思えないし、そうなると、最低でも一年以上は父と身体の関係には至らなかっただろうと思われる。
計算が合わなくなる。明玉の言っていることが正しく感じられた。
(姉さんが、父さんの子供じゃない……?)
まさか、とまだ信じられない思いがありつつも、もしや、と感じる部分もあった。
父の態度の違いだ。
寡黙な父は、月香達に対して褒めたり叱ったりすることはほとんどないが、螢月に対してよりは月香に対して厳しいところがある。珍しく怒って手をあげたりするのも、月香に対してだけだ。
もしかすると、自分の本当の子供ではないから、叱ることなどに躊躇したりしているのだろうか。
姉には別の父親がいる――その考えに至った瞬間、鋭い衝撃が背筋を駆け抜けた。
「明玉姐さん」
とんでもないものを読んでしまったわ、と手紙を畳み直している明玉に、月香は低く声をかける。
「その鴛祈という人が、いいお家の人かも知れないって、本当?」
気味の悪いものがざわりと肌を撫でていくような感情の込められた声音に、明玉は身震いしつつ、ええ、と頷いた。
「字ってね、結構人柄というか、育った環境が出るものなのよ。この手紙の字は身分が高そうな雰囲気がするし、慣例に従って名に一字を当てるっていうのも、いいお家では儘あることだしね」
言ってから、確実ではないけれど、と一応の断りを入れる。
月香は静かに頷き、手紙を受け取った。
(いいお家の人……身分の高いお家……)
草臥れた料紙を見つめながら、月香は唇を噛む。
「でも、螢月って名前をつけた時点で、その手紙の人とは関係なく、守月さんの子供として育てることにしたんじゃない?」
確証はなにもない。この手紙の文面から、月香と明玉が想像を働かせて妄想しただけだ。
「月香、聞いてる? この話はもうおしまいにしなさいよ。手紙は気づかれないように戻してさ」
けれど、もしもその通りだったらどうだろうか。螢月は身分の高い家の娘ということになる。
(私じゃなくて、姉さんが……)
適齢期のいい年頃だというのに、服装や髪形にも構わず、いつもばたばたと忙しそうに家のことをしている姉の姿を思い出し、理不尽に腹が立ってきた。
土に塗れて薬草を摘みながら、畑を耕しながら、気に入りの服に接ぎを当てながら、何度夢想したことだろうか。
自分は本当は両親の子ではなく、拾われっ子で、本当はお金持ちの家の娘なのだと。
本当はこんな
「姉さんばっかり、狡い」
ぽつんと呟いた声は、外から聞こえる楽しげな笑い声に掻き消され、明玉には聞こえていなかった。
母からはいつも「螢月がいてくれて助かるわ」と優しく頼られ、父には叱られたこともなく、月香はやらせてもらえない薬作りを手伝わせてもらえている。両親二人から愛されているのだ。
それだけ月香よりも優遇されているのに、もしも本当は貴族の子供なのだとしたら――
「姉さんばっかり、狡いわ」
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