一章

第4話 姉妹



 ああ、いやだ――と月香げっかは唇を尖らせた。

 苛立ち紛れに、その艶やかな髪を結っていた紐を解き、ぶんぶんと頭を振る。

(なんで私、こんなことしてるのかしら)

 大袈裟な溜め息と共にしゃがみ込み、足許の薬草を乱暴に引っこ抜く。それを傍らの籠目がけて乱雑に放り込んだ。

「……いやだ。爪に土が入った」

 腹立たしげに呟き、苛々と爪の間に入り込んだ土を取り除こうと掻き出すが、まったく上手くいかない。どんどんと奥に入って行き、生え際にまで押し込まれてしまった。


 荒れた手なんてみっともない。この色の白いほっそりとした月香の手は、すべらかでつるりとしているのが似合う筈なのに、いつもガサガサと荒れている。

 こんなことばかりしていれば当たり前だわ、と月香は薬草の入った籠を睨んで嘆息した。

 土でいつも汚れているし、気をつけていても汁でかぶれたりする。たかが葉っぱと侮ってうっかりしていると、すっぱりと切れてしまうこともある。まったく忌々しい。


「月香ぁ」

 汚れた裾にも苛立たしさを感じていると、遠くから呼ばわる声がする。

 振り返ると、茂みを抜けて姉が来るところだった。

「そろそろ帰ろうか。摘めた?」

 薬草でいっぱいになった籠を背負い直しながら、螢月けいげつは妹へ笑みを向ける。対する月香は唇を尖らせて仏頂面だ。

「どうしたの?」

「……髪が解けたの」

「あら。何処かに引っかけたの?」

 綺麗に結ってやった髪が風に嬲られて乱れている様子に、螢月は苦笑する。

「結い直して」

 月香は唇を尖らせたまま、結い紐を姉に向かって突き出す。それを受け取った螢月は、困ったような曖昧な笑みを浮かべた。

「でも、手が汚れているし……取り敢えず、父さんの小屋に行こう?」

 そう提案すると、月香は明らかに不満そうだった。けれど、ここで駄々を捏ねても仕方ないと思ったのか、籠を持って歩き出す。


 月香は螢月の櫛が欲しくて仕方がないのだ。自分の櫛も持っているのに、どうしても螢月の櫛を使いたがる。

 幼い頃から螢月は、基本的には月香の我儘には応じてきた。持ち物を欲しがれば与えたし、なにかして欲しいとねだられれば叶えてやった。けれど、この櫛だけは渡したくない。

 螢月の持っている櫛は、母からもらったものだ。

 良家のお嬢様だったという母の櫛は、接ぎを当てる服を着るような螢月には身分不相応な高価そうなものだが、だからこそ宝物として大事にしている。

 その綺麗な細工の櫛を、月香は心底羨ましがっているのだ。でも、この櫛だけは譲りたくなかった。


 父の炭焼き小屋に辿り着き、煙が立ち昇っていることを確認する。炭を焼いているということは、今夜から泊まり込むのだろう。食事はどうするのか確認しなければ。

 籠を下ろして振り返ると、月香が干し棚に自分が摘んで来たよもぎをぶちまけているところだった。

「月香、父さんに夕飯どうするか訊いて来て」

「えぇ……」

「その間に手を洗っておくから、戻って来たら髪やってあげる」

「…………」

「ほら。そんな顔しないの。可愛いのに勿体ないわよ」

 行ってらっしゃい、と念を押すように言うと、月香はぶすくれた表情のまま踵を返し、窯がある方へと出て行った。


 やれやれ、と溜め息を零しつつ、汲み置きの水瓶に柄杓を差し入れた。

 最近の月香は、あれも嫌これも嫌と、ほとんどのものを拒絶する。困ったものだ。

 先日、村長の息子から結婚を申し込まれたので、なにか思うところがあるのかも知れない。とてもいい縁なので是非受けて欲しいところなのだが、まだ十五歳の月香は戸惑っているのだろう。

 求婚してきた青甄せいしんはいい人だ。優しく穏やかで勤勉で、愚直なほどに真面目な働き者。夫となってくれるには理想的な人だろう。

 この村の年頃の女の子達は、ほとんどが青甄をいい人だと思っていて、螢月も彼には淡い憧れを抱いていた。

 そんな彼が嫁にと望んだのは、この近隣では一番の美少女とも評される月香だった。

 月香が相手なら仕方がないわね、青甄さんも結局顔で選ぶのね、などと苦笑しながら、女の子達は二人の縁談の行方を見守る構えだ。もちろん螢月もそうした一人だった。


「夕飯、持って来てくれると助かるって」

 手巾てぬぐいをしまったところで、月香が戻って来た。相変わらずの仏頂面だ。

 そう、と頷き、螢月は帯の間から櫛を取り出した。

「ここに座んなさいな」

 手招きすると、月香はようやく笑みを見せた。かまちの上にすとんと腰を下ろし、螢月へ背を向ける。

 月香の腰までの黒髪を、螢月は丁寧に梳いていく。太くコシの強い自分の髪と違って、細く柔らかな月香の髪は、梳く度につやつやと綺麗な光沢を見せる。少し羨ましい。

 束にしたものを捻ってくるりと輪にして形を整え、崩れないように紐で結う。

「出来たわよ」

 乱れ髪を整え直した月香は、やはりこの村の誰よりも美しく可愛らしい。螢月の自慢の妹だ。


 鏡はなかったので、結われた形をそっと指先で確認するように触れ、月香は満更でもない表情になる。

「やっぱりね、姉さんの櫛で梳くと、いつもよりうんと綺麗になった感じがする」

「なに言ってるの。櫛なんてどれも一緒でしょう」

「違うもの」

 尚も言う月香の言葉に、そんなわけあるか、と笑いながら櫛をしまおうとすると、ぱっと横から取り上げられた。

「そんなこと言うなら、これちょうだい。大事に使うから」

「月香」

「だって姉さんには櫛なんてみんな同じなんでしょ? だったらこの櫛ちょうだい」

 そう言って握り締めて胸に抱え込む。


 またそんなことを言って、と螢月は溜め息を零した。

「これは駄目って言ったでしょう? だからこの前、桃色の襦裙きものをあげたじゃない」

 あの襦裙は十四のときに父が買ってくれたお気に入りの晴れ着だった。

 幸か不幸か、この四年の間でたいして背も伸びなければ体型が大きく変わることもなかったので、祭りや新年の祝いのときに着ていた。それを月香は、この櫛と同様に、ずっと羨ましがっていたのだ。

 だから、櫛をもう欲しがらない代わりに、とその襦裙を譲ってあげたのは、今年の新年の祝いのときだった。それなのにもう反故にしている。

 たしなめられた月香は、さすがにまだ半年も経っていない約束のことなので覚えがあり、バツが悪そうに唇を尖らせる。泳がせた視線が気不味さを物語っていた。

 櫛に手を伸ばすとすぐに手を離したので、自分の行動を悪かったとは思っているのだ。こういう素直なところはやはり可愛い。


 櫛をまた帯の間に挟み込み、月香が摘んで来た蓬の中で若葉である部分を手に取る。

「帰ろう。夕飯までまだ時間あるし、蒸し餅作ってあげるから」

「いいの?」

 月香はパッと顔を上げた。

 ちょっと手間のかかる蒸し餅は、螢月達の家ではちょっとしたお祝い事のときに作ることにしている。なにもない日に作るのは稀だ。

 そうよ、と螢月は頷いた。しかも、月香の好きな蓬入りだ。

 急に機嫌を直したらしい月香は笑顔で立ち上がり、螢月の腕を取った。

「でも、あんた一人で食べるわけじゃないからね。泊まり込みで大変になる父さんへの激励と、寝込んでる母さんの快復を願ってのことだからね」

「うん、わかってる。姉さん大好き!」

「……調子がいいんだから」

 苦笑しつつも、こういう無邪気な月香が可愛くて仕方がない螢月だった。



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