第3話 夜襲
別れの涙を零す暇もなかった。
なにか叫んでいる
厩に辿り着いたスウォルは、月蘭を振り返る。
「……乗れるわ。手を貸してくれれば」
腹が大きくなってきてから馬に乗るような遠出はしていなかったので、多少の不安はあった。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。
スウォルの手を借りてなんとか鞍に跨り、産み月まで間もない大きな腹を見下ろす。
(大丈夫。
何事も起こらないことを祈りながら手綱を握り、スウォルが示す方へと馬首を向ける。
月明かりの下、二人は走り出す。
先を行くスウォルの姿をよく見てみれば、背と腰に剣を佩き、鞍の横には矢箱が下がっている。いつもよりもずっと武装している様子に、今の状況が本当に危険なのだろうと察する。
ずきん、と腹が痛む。思ったよりも馬の走る振動が大きいからだろう。腰を浮かせて立って乗ることも出来なくはないが、今はこの大きな腹の所為で姿勢を維持出来そうにもない。どうにかこのままの姿勢で耐えるしかない。
心中で腹の子に謝りながら、なんとか堪えてくれ、と強く願いつつ、スウォルを追って山道を駆け上がって行く。
ふと、背後が
不安を感じて肩越しに振り返ると、屋敷のあたりが明るくなっている様子が見えた。松明の灯りだ。
月蘭が生まれ育った屋敷が、いくつもの松明に囲まれている。
だから父は急がせたのだ。ああなってしまっていては、抜け出すことなど出来やしなかった。
再び腹が痛む。胸のあたりも。
(戦時下だというのに……)
眩暈がするほどに湧き上がって来たのは、恐ろしさよりも怒りだった。
鴛祈は戦地にいる。多くの兵や、徴用された民もだ。
国を守る為に武器を持って敵を傷つけ、己も傷ついているというのに、次代を担う男が安穏な都でしていることが、手勢を動かして小娘一人を罰しようとしている。愚かしいというよりほかはない。
父はそんな男の味方だった筈だ。
けれど、それを間違っていると感じたのか、ただ単に一人娘を傷つけられたくなくてそうしたのかは知らないが、月蘭を逃がすことにしたのだ。
その行為に感謝をすればいいのか、嘆けばいいのか。
恐らく父は、月蘭を逃がしたことを責められるだろう。それでどうなってしまうかはわからない。最悪、殺されるかも知れない。
悔しさに滲む涙を乱暴に拭き取り、先を行くスウォルの背中をしっかりと見つめる。
腹はまだ張るように痛む。先刻よりも痛みは増すばかりだが、立ち止まることなど出来やしない。折角父が逃がしてくれたのだから。
随分と山の中を進み、
「お嬢様」
あまり喋らないスウォルの声を随分と久しぶりに聞いた。
「歩けますか?」
馬を下りたスウォルは淡々とした口調で尋ねてくる。特に感情のこもらないその声音に少し恐ろしさを感じながら、月蘭は首を振った。
「ちょっとわからないわ」
もちろん歩けないわけではない。けれど、暗い夜の獣道を、この大きなお腹を抱えて歩けるかはわからなかった。
スウォルの眉が僅かに寄る。その様に、迷惑極まりないことだろうな、と月蘭は思った。
彼は父に恩義があるから従っているだけで、月蘭を主人としているわけではない。守れと命じられたからそうしてくれているが、足手纏いどころかただの荷物にしか思えないことくらいは理解している。
月蘭は小さく「いい」と呟き、手を貸してくれるように頼んだ。
「馬は入って行けない道へ行くのでしょう? それが最善だというのなら、従います」
その決意にスウォルはこくりと頷き、自分が乗って来た馬の鞍に、月蘭の下着の裾を破った端切れを絡ませると、尻を叩いて他処へやってしまう。
「二頭とも同時に放せば、居場所が割れるかも知れない」
去り行く馬の姿を目で追っていた月蘭に、スウォルは短く説明した。女物の衣の端切れをつけておけば、落馬したと思って近辺を捜すようになるだろう、と考えを示して。
頷きながら来た道を振り返れば、暗闇の中に微かに灯りが見え隠れしている。追手だ。
青褪めていると先を促されたので、月蘭は慌てて歩みを進め始めた。
「――…スウォルは、事情を知っているの?」
そこまで険しく急な山道でなくてよかった、と思いながら、横たわる古木をなんとか踏み越える。
話を振られたスウォルは、僅かに頷き返しながら手を貸してくれた。
「あれは、本当に、世太子殿下の手の者なの?」
「殿様はそう仰っていた」
大きな窪みを越える為に抱え上げてくれるのへ申し訳なさを感じながら、端的な回答に眉根を寄せる。
「俺は、聞いたままを殿様に伝えました」
何故このようなことになっているのか、と今の状況に疑問を持ちつつ嘆かわしげに思っていると、スウォルが短く言葉を継いだ。
曰く、屋敷と父との間の使い走りをして王宮に出向いたときに、密談を交わしている男達の声を聞いたという。断片的にでも聞き取ったのは、月蘭を拐そうという内容だった。
自分が護衛を言いつけられている相手に関することだ。これはいけない、と思い、主人である月蘭の父へ事の次第を伝え、方々に探りを入れて調べた結果が、
しかし、父は鴛祈と約束してしまった手前、鴛凌との縁談の行方を最近は濁していた。
それが気に入らなかったらしく、手っ取り早く後宮に捕らえてしまおう、という乱暴すぎる結論に至ったらしい。その段取りの途中で、月蘭が密かに懐妊しているようだという情報を得たようだった。
「それが何故、あんな夜襲をかけるみたいなことになるのよ」
苦しげな息の下から月蘭は疑問を投げかける。
知らない、とスウォルは首を振った。
「俺は見たまま聞いたままを伝えただけだし、あれが世太子の手下だってのも本当で……お嬢様? 大丈夫ですか?」
月蘭の呼吸が明らかにおかしいことに気づいて立ち止まる。断りを入れて頬に触れると、そこは滝のような汗が流れている上に、ぶるぶると震えているようだった。
大丈夫、と答えようとした月蘭だったが、そんな強がりを言うような余裕はなかった。震える手でスウォルの手首を掴み、力を込める。
「――…お……お、なか、が……痛い、の……っ」
先程からずっと痛んでいた。一向に治る気配がないどころか、痛みは増すばかりで、今はもう我慢するのもつらいくらいに痛んでいる。
スウォルはさっと顔色を変え、遠く木立ちの向こうに揺らめく灯りの群れとの距離を測る。まだ多少の余裕はある。
「お嬢様、もう少し頑張って歩いてください。この山を越せば、第一の目的地があります」
この大きな腹では背負ってやることは出来ないし、抱き上げてこちらの手が完全に塞がってしまうのも困る。自力で歩いてもらうしかない。
月蘭は泣きながら必死に頷いた。こんなところで立ち止まっている余裕はないのだ。
腹を摩りながら歩き出す。
痛み出してからずっと、胎動が感じられなくなっている。今朝まではあんなに元気に動き回っていたというのに。
そのことに不安を抱きながらも、胸許に忍ばせた鴛祈からの最後の手紙の文面を思い起こし、気力を奮い立たせる。
『腹の子が息子だったら、慣例通り「
(でも、この子は娘のような気がするのです)
『娘だったら、思い出のあの樹に
月蘭は存在を確かめるように腹に触れる。
生きて。生きて。生きて。
元気に生まれて、私の腕に抱かれて。あなたのお父様にも抱かれてあげて。
つらい目に遭わせてごめんなさい。でも、もう少しだけ我慢して。もう少しだけ。
「頑張って――
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