第2話 露見



 鴛祈えんきは言っていた通りに、秋の収穫が終える頃、軍を率いて国境へと向かって行った。

 早ければ年内に、遅くとも雪が降る前には帰還するとのことだ。雪が降っては身動きが取りづらくなるので、停戦するというのが昔からの習わしだった。


 ほう、と溜め息を零し、月蘭げつらんはすっかりと大きくなった腹を撫でる。

 幸いというべきかどうなのか、溺愛する父がここふた月ほどは王宮の方に詰めているので、懐妊の事実は知られずに済んでいる。今まではゆったりした服装故に気づかれずに済んでいたのだが、これからはさすがに無理だろう。

 さて、どうしたものか――月蘭は産み月が迫って来た腹を撫でながら思案する。


「お嬢様」

 そんな月蘭の思考を遮り、幼い頃から付き従ってくれている年嵩の侍女が声をかける。

「なぁに、楽花がっか?」

 振り返ると、侍女は険しい顔つきでお茶を手にしていた。夜も更けてきて冷え込んでいるので、持って来てくれたのだろう。

「いつまでもこのまま、というわけには参りませんよ」

 卓の上に茶碗を置きながら、楽花は零す。

 また始まった――月蘭はほんの少しだけ眉を寄せる。

 楽花の小言はここのところほぼ毎日だ。何故かなど、もちろん月蘭にもよくわかっていたので、黙って聞くことにする。

「いったいどうするおつもりでいらっしゃるのですか……」

 今度は溜め息混じり。

「なにも考えていないわけではないのよ」

 茶碗を両手で持って指先を温めながら、月蘭は唇を尖らせた。その様子に楽花はキッと目つきを鋭くし、拳を握って身を乗り出す。

「考えていないから、そんなお腹になってしまったのでしょう!」

 返す言葉はなかった。


 早くに母を亡くした月蘭にとって、この侍女は母親代わりのようなものだった。世の女親がしてくれるであろうことは、すべて楽花がやってくれていた。

 それ故に、我が子同然の月蘭が正当な手順も踏まずに恋人に身体を許し、孕んでしまったことを心底嘆いているのだ。そんな楽花の気持ちが理解出来ないほどに月蘭は浅墓ではないが、素直に反省して謝れるほどには聞き分けのいい娘でもなかった。


 半分ほどお茶を飲み下し、息をひとつ吐く。

「楽花」

 怒りにぶるぶると震えている拳に手を添え、月蘭は言った。

「順番がおかしかったことは、確かに私がよくなかったわ。でも、鴛祈様も私も、心はずっとひとつなの。共に生きたい、と」

「お嬢様……」

「悪いことをした自覚は、本当にきちんとあるの。反省もしているわ。――でもね、お父様が頑なだったからこうなってしまったことも、お前はわかってくれるでしょう?」

 真摯に訴えかける。楽花は唇を引き結んだままなにも言わなかったが、心の内では頷いてくれているのがわかった。


 このりゅう国の次期君主は、鴛祈の兄である鴛凌えんりょうだ。月蘭の父はその世太子に月蘭を嫁がせたいと、ずっと昔から考えていた。

 鴛凌には既に正妃がいる。月蘭が嫁いでも側妃にしかなれないとわかっていたのだが、その正妃が四年ほど前に身罷った。産褥の疲れた身体に夜伽を命じられ、そのまま閨室ねやで亡くなったということだった。

 そんな恐ろしく非情なことをする男の許へ嫁げと父は言うのだ。幼い頃より相思相愛だった鴛祈と別れさせてまで。

 このことは楽花も共に嘆いてくれたし、いくら次期国王という身分であろうとも、そんな残忍な男の許へ嫁がせるのは反対だ、と思ってくれていた。

 嫌だ嫌だと拒み続け、事ある毎に鴛祈との婚儀を認めるように訴えて来た。月蘭の言葉だけでは心許ないから、鴛祈自身もわざわざ足を運び何度も許しを請うていたのだが、ずっと平行線のままだった。

 最終的に、いくつかの戦で武功を立て、月蘭を守れるような一人前の男として認められるようになれば、婚姻を認めよう、という話になったのが、昨年の春頃のことだった。

 約束のあと、二度ほどの戦を経験した鴛祈だったが、規模が小さい故に武功とまでは言えぬ、という言葉で反故にされてしまい、待ちきれなかった月蘭が彼の許へ駆けたのだったが、結果としてこのようなことになった。


 はち切れそうになっている腹を見下ろしながら、月蘭は静かに嘆息した。

 本当は、身籠ったとわかった時点で父には告白しようと思っていたのだが、先に鴛祈に報せてからだ、と少し間を空けたのがいけなかったのかも知れない。

 そこから機会を逸しているうちにどんどん腹は大きくなり、そろそろ隠せないだろう、と思っていた矢先に隣国との戦火が切られ、それが随分と大きなものとなりそうだから、と父が王宮に詰めっきりになってしまってふた月以上だ。完全に機会を見失ってしまった。

 もうじきに生まれる。そうなってしまってはどうなることやら。


 腹を撫でていると、外が俄かに騒がしくなったことに気づく。

 なにかあったのだろうか、と月蘭と楽花が揃って扉へ顔を向けると同時に、そこが乱暴に開け放たれた。

「――…おっ、お父様!?」

 両肩を怒らせて部屋に入って来た父は、月蘭の姿を見て、迷わずに手を振り上げた。


「この、痴れ者が!」

 父に頬を張られたのは初めてのことだった。痛みと衝撃に言葉を失い、悪鬼のように顔をどす黒くしている父を茫然と見つめ返す。

「婚前に孕むなど、なんたることか! 恥を知れ!」

 鋭く怒鳴りつけると、息を荒くしたままその場に膝をつき、低く慟哭し始める。

 月蘭は楽花に支えられて姿勢を正しながら、そんな父の様子を黙って見つめた。


 この腹のことを誰ぞに聞かされたのだろう。そうして慌てて暇を作り、帰宅したのか。

 悪いことをした、と幾許いくばくか胸の内が痛む。一人娘がこのようなことになっているという事実を他処から聞かされたのなら、その驚きようは計り知れない。殴られても当然だろう。

 月蘭は静かに手をつき、深く頭を下げた。

「お父様のお怒り、もっともでございます。すべては私の浅慮が致したこと。なんと申し上げればいいのか思い浮かびませんが、それでも、どうかお許しくださいませ」


 父は黙っていた。

 ややして、大きな溜め息を零しながら顔を上げ、最後に見たときよりも随分と痩せた手で月蘭の手を掴んだ。

「逃げよ」

 鋭い声でそう告げると、その手を引いて立たせる。

 え、と月蘭は双眸を瞠り、楽花を振り返った。

「荷詰めの暇はない。そこらの櫛やらなにやら、金に換えられそうなものをとにかく身に着けろ。急げ」

「お父様?」

 突然のことに理解が追いつかずに父を見返すと、簪入れを掴んだまま振り返る。


「その腹のことが、世太子殿下に知れた」

 端的な言葉。しかし、それ以上の説明はいらなかった。


 自分の許へ嫁ぐかも知れないという話題が何度も出ていた娘に、誰かが先に手をつけたのだという事実を鴛凌が知ったということだ。高慢で利己的な鴛凌のことだから、それを聞き流すほどには度量が大きくはないし、しかも仲の悪い鴛祈が原因だということになれば、月蘭と腹の子をどうしてしまおうと考えるかは明白だった。

 そして恐ろしいことに、鴛凌はそういったことをやっても許される立場にある。


 さっと顔色を失った月蘭だったが、すぐに気持ちを取り直す。父の指示通りに、換金出来そうな絹を何枚か重ねて羽織り、着けられる分だけの腕環や首飾りをつけて懐にもいくつか忍ばせ、持ち運べる最低限のものを纏った。


 月蘭の身支度が整ったことを見ると、父は外へ声をかける。すぐにスウォルが姿を現した。

「状況はわかるな?」

 言葉少なな父の問いかけに、スウォルはいつものようにこくりと首を動かした。

「月蘭を守れ。お前の名が示すとおりに」

 スウォルはこくりともう一度首を動かし、素早く立ち上がると、月蘭の手を掴んだ。




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