萌梅公主偽伝

都月きく音

序章

第1話 逢瀬



 鴛祈えんきと逢うのは、ふた月振りになるだろうか。

 供も連れずに馬を駆って来る姿を眺め、月蘭げつらんは双眸を細めた。


蘭々らんらん

 約束の樹の下で待っていてくれた恋人の姿を見つけた鴛祈は、嬉しげに声を上げる。

「鴛祈様。ご無事で」

 被き布をするりと落とし、月蘭も微笑む。


「少し、お痩せになられましたか?」

 抱き竦めてくれた逞しい腕に触れながら、月蘭は小首を傾げた。以前に見たときよりも、顎の線が尖っているような気がするのだ。

 鴛祈はちょっと目を瞠ってから、苦く笑った。

「まあ、少ぅしな」

 戦場にいたのだから苦労したに違いない。それくらい想像出来ないような月蘭ではなかったが、改めてその様子を見せられると、胸の奥がずくりと痛む。

「ご無事で、ようございました」

 彼が五体満足で、大きな怪我もなく帰還してくれたことを、改めて神仏に感謝した。祈願することしか出来なかった月蘭は、ずっと気が気ではなかったのだ。


「そう言うあなたは、少しふくよかになられたか?」

「きゃっ」

 痛ましげな表情になって沈んだ声を出す月蘭を抱え上げ、鴛祈は打ち消すように明るい声音を響かせた。

「そんなことありません。いやな方ですね!」

「そうかな? 以前のあなたはもっと小さく細かったような気がするが……」

「もう!」

 真面目な表情で腹立たしいことを言う男を睨み、月蘭は頬を膨らませる。そんな可愛らしい表情を見下ろし、鴛祈は声を立てて笑いながらくるりと回り、月蘭を抱えたままその場に倒れ込んだ。

 きゃあ、と月蘭が悲鳴を上げ、それから楽しげに笑う。


 久方の逢瀬を楽しみ、睦み合う恋人達の声が、夏の近づく青天に晴れやかに響いていた。


 一頻ひとしきり笑い合ったあと、二人は草原に寝転んだまま並んで空を見上げた。

「――…子が、出来たのです」

 鴛祈が愛しい姫の重みを腕に感じ、その幸せを噛み締めながら雲の流れを追っていると、左の肩に額を擦り寄せた月蘭が囁いた。

 え、と小さく声を漏らす。

 振り返ると、瞳を潤ませた月蘭が、頬を染めて微笑んでいた。

真実まことか?」

「はい」

 声は上擦って僅かに震えていたが、答えは明瞭だった。

 はっ、と鴛祈は吐息を漏らす。

「そうか……子が……」

 零された声音に戸惑いが含まれていることを感じて、月蘭は顔を上げた。

「あ、いや。迷惑とか、そういうことではないのだ。驚いただけで」

 そう答えてから、月蘭の告白にゆるゆると実感が湧いて来て、口許が緩んだ。

「――…子か」

 もう一度、確かめるように呟く声に、はい、と月蘭は頷く。


 伸びてきた大きな掌が、月蘭の腹に触れてくる。そこは触れればはっきりとわかるほどに丸みを帯びていた。

「わたしの子が、いるのだな」

 丸みを愛しく撫でながら頬を寄せ、鴛祈は呟く。はい、と月蘭は微笑んだ。

「いつ生まれる?」

「詳しくはわかりませんけれど、年暮れの前には」

「そうか。暮れか」

 噛み締めるように頷いてから、その頃には傍についていてやることが出来るだろうか、と僅かながら不安を抱く。


 ここのところ半年と空けずに戦続きだ。数年前に滅ぼした小国の残党が、兵力を集っては戦を仕掛けてくるからだ。

 武力に秀でた彼の小国は、夜襲と奇襲に女子供を質にした虐殺という悪辣な戦術で攻め取った卑怯なこちらのことを、心から恨んでいる。その気持ちは鴛祈もよくわかるつもりだ。しかし、当時まだ戦を知らない少年だった彼に、父や兄を諫めるような力はなかった。

 戦とは、本当に嫌なものだ。暴力で以て他者を蹂躙する。なんとも愚かしい行為だ。

 しかもここのところの戦の原因は、すべてこちら側にあるのだ。こういう憎しみや怨みの連鎖を生むからこそ、戦というものをするのは馬鹿げていると思う。


「蘭々」

 ひどく遣る瀬ない気持ちになりながら、腕の中の恋人を呼ぶ。

「子が出来たのならば、早々に婚儀の許しを頂かねばならぬな」

 月蘭は鴛祈の顔を覗き込んだ。

「でも」

「わかっている。だから、もう少しだけ待っていてくれ」

 起き上がった鴛祈は月蘭も起こし、その肩をしっかりと掴んで真剣な目を向ける。

「もうすぐ――恐らく秋の収穫を待って、そう国との戦が始まる。そこで必ず武勲を立て、今度こそ許しを頂いてみせる」

 二人の結婚に反対しているのは月蘭の父だ。彼は月蘭を鴛祈の兄に嫁がせたいと思っている。けれど、次の戦でも武功を立てれば、王命で認めさせることが出来る筈だった。


 もう少し待っていてくれ、という鴛祈の言葉に、月蘭はただただ頷いた。

「お待ちしております。けれど、どうか、この子を父なし子にはしないでくださいませね」

「もちろんだとも。必ず戻る」

 そう言って口づけを交わし、二人は少し先のことを固く約束し合った。


「……さあ、夏が近いとは言っても、身体を冷やしてはいけない。お父上に見つかっても大変だ」

 少し陽が陰ってきたことに気づいた鴛祈は、そう言って月蘭を立たせる。

 久方振りだというのにあまりにも短い逢瀬で名残惜しくはあったが、月蘭も頷き、供の者が待つ場所へと送ってもらう。


 木に寄りかかって腰を下ろしていた男は、二人が近づいて来たことに気づき、さっと立ち上がって叩頭した。彼は月蘭の外出時の護衛兼従者だ。

 鴛祈はその男を僅かに睨み、月蘭を馬へと乗せてやる。

「また手紙を書くよ」

 月蘭がしっかりと鞍に乗ったことを確認してから、その手を握って囁く。

「私も書きます」

 手を握り返しながら、嬉しげに微笑む。その表情は確かに幸せそうだった。


「スウォル」

 別れが済んだと見るや、手綱を引こうとする男を鴛祈は呼び止める。彼は変わった色の瞳で見つめ返して来た。

「蘭々を――お前の主人を、しっかりと守れよ」

 その言葉に、男は頷くでもなく反論するでもなく、ただ静かにゆっくりと頭を下げた。


 嘗て滅ぼされた小国に所縁ある者――それが彼の正体だ。

 そんな男を、月蘭の父がどういった経緯で拾い、愛娘の護衛になどつけたのかは、鴛祈にはわからない。尋ねても教えてはくれないだろう。


 ゆっくりとした足取りで去って行く二人の姿を見送りながら、そんな男が愛しい月蘭の傍にいるのだということに、鴛祈はただただ胸の悪くなる思いだった。




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