第三十五譚 戦の勝利と《春》の跫
斯くして、反乱軍による男爵襲撃は決行された。
税を積んだ騎士隊を連れ、男爵が中央都にむけて移動を始めた直後、反乱軍が奇襲をかけた。
城の敷地は草原になっていて、城からみて、北側には崖があった。道は崖の真下を迂回するように続き、町に繋がってから
反乱軍の第一隊は崖の頂に待機していた。
崖の真下に男爵の騎士隊が差しかかったところで、崖の頂から石塊を落とす。三割ほどの馬車が
男爵の軍は襲撃を受けたことに気づき、体勢を立て直すべく、城に退却する。
だが時をおなじくして、山脈を渡り、城の裏側から侵攻していた反乱軍の第二隊が警備の手薄になっていた城を制して、敵の本拠地を占領。みずからの城から砲撃を受け、男爵の軍は為すすべもなく逃げ惑った。草原のいたるところから、反乱軍の小隊が現れ、騎士隊は散り散りになってしまう。
草原は一瞬にして戦場となった。
天候が急激に崩れ、身を斬るような氷雪が吹き荒んだ。
だが、この土地に生まれた者は悪天候を
雪は噴きあがる血潮に赤く染められ、積もる側から熱にとかされた。黄金の穂はなぎ払われ、枯草の
遂に残るは、男爵ひとりになった。
結果からいえば、反乱軍の勝利だった。大勝といってもいい。
だが追い詰められた男爵は最後にこう、言った。
「私を殺すのか! 私は中央都の
隊長が首を落とすまで、男爵は呪い続けていた。
兜をかぶった頭が野に落ちて、声は途絶えた。
だがその言葉は、町の勝利に黒い染みを残した。
はじめはよかったのだ。税をかけられることもなくなり、実りは町の者に行き渡った。暖かく、豊かな冬を迎えられるとみなが喜んでいた。
反乱軍の
雪は祈りだ。墓となり、
だが清潔な雪の表に落ちた血の雫が段々と拡がっていくように、春が近づくにつれて、男爵の言葉が徐々に現実味を帯びてきた。不安にたえかねた若者が、男爵の言葉を誰かに洩らしてしまい、そこから町全域に恐怖が蔓延していった。反乱軍に加盟した若者のなかには、働くことができないほどに塞ぎ込んでしまった若者もいた。春になり、冬の砦がなくなれば男爵の安否を確かめに、中央都からの使者が訪れるに違いない。男爵の死の真相を突きとめて、軍をひきいて攻めてくる。
そうなれば、町は終わりだ。
町は、春を恐れるようになった。
けれども、季節は巡る。望もうとも望まずとも。
日に日に、陽気は暖かくなり、枝の冬芽が膨らんだ。雪はとけ、野ざらしにしていた男爵の軍の骸がみえてきそうになる。町の者は幾度も繰りかえし、骸を確かめにいった。ユラフのところにも、春はいつ頃やってくるのかと尋ねてくる者が後を絶たなかった。
そんな最中のことだ。
とある報せが、町を恐怖に陥れた。
「大変だわ! リリィ姉様、ユラフ兄様!」
年幼い娘が宿屋に駆け込んできたのは春が迫る午後のことだった。
リリィの義理の妹のトウサ・ラィ・ノルテだ。
現在はユラフの義理の妹でもあった。
とは言っても、ユラフはトウサが産まれた時から見知っているので、結婚する前から妹のようなものだ。トウサもまた、昔からユラフを慕ってくれていた。ふたりが結婚したときに、最も祝福してくれたのは彼女だ。
「トウサ、なにかあったのか? そんなに息をきらして」
普段は
「中央都の軍が襲ってきたって!」
「なんだって! それは、まちがいないのか?」
「物見台に待機していた隊から伝達があったって、いま! ダグさんは武器を集めて、他の隊員と一緒に街道で待ち構えてる! 町のみんなは建物に隠れて、できれば武器になる物を用意しておけって。うちは女所帯だから、ユラフ兄様とリリィ姉様のところにいけって母様に言われて……ねえ、なんでこんなことになってるの? もうすぐ、姉様と兄様の子が生まれるのに」
震えるトウサを抱き締めて、リリィが表情を曇らせた。
「あなた……きっと、だいじょうぶよね?」
「ああ、懸念はいらない。町には自警隊がいるんだ。案じては子に
ユラフは妻と義理の妹を励ます言葉をかけながらも、都の軍が侵攻してきたら、自警隊では敵わないだろうと考えていた。男爵の騎士隊とは規模が違うのだ。騎士隊に勝てたのも奇襲をかけたからだ。
ユラフは倉庫から斧を持ってきて、扉のところで構えていた。
最悪、敵が来たらふたりを裏から逃がして、差し違えてでもふたりを逃がすつもりだった。だが、待てども待てども、馬の
町の者は息を殺していた。祈る者がいた。武器を取る者がいた。後から知ったが、町から逃げて洞窟に隠れた者もいたそうだ。
どれくらい経っただろうか。
日が落ちて、夜の帳が空を覆う頃に、隊の若者がやってきた。戸をたたかれて一瞬敵かと身構えたが、声をかけられて、警戒を解く。隊の若者は平謝りして「実は」と事情を話す。
「敵軍を発見後、監視を続けていたにもかかわらず、敵軍が消えてしまい、現場は騒然となりました。千を超える軍勢が隠れられるようなところはなかったものですから。その後、隊が捜索を続けましたが、敵軍は確認できず、その、雪の幻だったようです。大変なご迷惑を」
繰りかえし、頭をさげる若者の
騒動の蓋をあければ、季節のかげろうだった。ぼやけた雪の幻が軍の行進に視えたという。
緊張の糸がほどけた町の者は安堵するやら、呆れるやら。されど物見台で待機していた若者が例外なく軍の幻影を視ていたことから、彼らの精神がいかに摩耗しているかが窺えた。
「今度のは、ただの幻だったけれど、いつかは本物の軍が町に押し寄せてくるのね」
トウサが鼻声で言った。頬には涙が流れた跡が残っていた。
隊員の連絡を受け、張りつめていた気が緩んだのか、わあと泣きだしてしまったのだ。トウサはまだ十五歳になったばかりだ。よほどにこわかったに違いない。
「春になったら」
雪の砦がなくなれば、町を護るものはなにもなくなる。
ユラフは額を押さえて、悔いた。
「俺が反乱軍をとめていれば、こうはならなかっただろうか」
「ユラフ兄様のせいじゃないわ」
トウサは首を横に振る。
「ダグさんがいっていたの。ユラフ兄様は最後まで、反乱を
ダグの心境を考えると、ユラフは極寒に骨をけずられるような心地になる。
勝利の翌晩に、隊の宴が催されてからというもの、ユラフはダグとは会えていなかった。宴の時も隊長たるダグは隊の若者にかこまれていて、会話らしい会話はできなかった。祝いの言葉をかけたくらいだ。流れてくる噂によれば、ダグは春が近づくにつれて不眠を患い、酒を飲みすぎて身体を壊したとか。いまは絵本作家の恋人が世話をしてくれているそうだ。町では自警隊を責める声が、ちらほらとだが、あがっていた。「反乱など興さなければ、こんな事態にはならなかったのに」と無責任に糾弾する少数の声を、されどあの律儀な隊長はまともに受け取り、神経を細らせている。それでも有事には隊をひきいて現地に赴き、戦いに挑むだけの気概があるのだから、さすがだ。
「彼らの決断が誤りだったとは、俺には言えない」
ユラフは重々しく、言葉を落とす。
「彼らが戦ってくれたから、飢えずに済んだものがいた。そうでなければ、冬の実りは全部、取りあげられていただろう。俺は無謀だと言ったが、彼らはなし遂げたんだ。決断を否定するだけならば、誰にだってできる。それは、もっとも楽な手段だ。代替案さえ、俺は提示できなかった。だから、いや……だけれど、というべきか、ああ」
思考がまとまらず、彼は深緑の髪を掻きまわす。
「彼らの勇気は無駄ではなかった。無駄ではなかったと思いたい」
肺を押しつぶすような息をついて、それを最後に、彼は黙り込んだ。
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トウサを隣の家まで送りとどけてユラフが帰ってくると、リリィが暖かな飲み物を用意してくれていた。それを飲みながら、ユラフは
もとから
静かに、とけた雪が屋根をすべり落ちる音に耳を澄ませる。
「春が来たら……春に生まれるこの子は、どうなるのかしら」
膨らんだ
彼女がこんなふうに悲観に暮れたことはない。ユラフは愛する妻をなぐさめられないかと考えたが、かけてやれる言葉が見当たらなかった。あの騒動が現実となる時が迫っているのだ。ユラフは振るうことがなかった斧を握ったり壁に立てかけたりを繰りかえして、思案していた。
ユラフには季節の
春はすぐそこだ。
彼は、春が好きだった。
季節にはそれぞれの風景があるが、山脈の春は格段に綺麗だ。根雪がとけて、若葉が頭をのぞかせ、柔い緑が麓を彩る。するとこれまで竜の背のようだった山脈の輪郭が、被毛に覆われた鹿の腰のように柔らかくなる。後は指折り数えれば、百花の宴だ。
彼は春を愛していた。ほんとうに愛していたのだ。
だがいまは、春がおそろしかった。
春は冬の砦を崩して、都の軍を連れてくる。軍隊は故郷の大地を踏みにじり、町を焼きはらい、愛する者を奪っていくだろう。町の若者が戦っても、故郷を護ることはできないだろう。
春がこなければ。冬が終わらなければ。
「…………」
その翌朝から、ユラフが失踪した。
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