第二十譚 無辜の娘は《春》を望む
鐘が、からんからんと賑やかな音を奏でた。
ハルビアが帰ってきたのだと、セツは急いで埃をちりとりにかき集めて、
「おかえりなさい。すみません、勝手に箒を借りてしまって」
「えっと、なにをなさっているのですか?」
「あ、二階にあがるのは迷惑でしたか? 客室には入っていませんよぉ、階段と踊り場だけ」
「いえ、そういうわけではなくて、お客さまに掃除をしていただくわけには」
ハルビアが恐縮するが、セツはなんだそんなことかと安堵の息をついた。
「掃除は、僕にもできることですので」
セツは箒を掲げてみせる。
後ろからは水桶を提げたクワイヤが、ひょこりと頭をのぞかせた。普段の様子からすれば、掃除などよごれることは嫌がりそうだが、意外にも楽しみながら勤しんでいる。先ほどまでは浮遊しながら、梯子があっても掃除できない
「それに結構暇だったんですよぉ。なので、気になさらないでくださいねぇ。洗い物もそうですが、ご迷惑にならない程度に手伝わせていただければ幸いです」
「二階は埃だらけだったでしょう」
申し訳なさそうにハルビアが階段を仰ぐ。
彼女の脚では二階にはあがれない。結束の強いこの地域のことだ。年に一度か二度は、町の人が掃除をしてくれているだろうが、埃はすぐに溜まる。
「あの」
セツは遠慮がちに視線をさげる。
「脚はどうなさったのですか? お怪我でもなさっているのですか?」
ためらいながら、彼は車椅子のことに触れた。
気には掛かっていたが、機会がなく尋ねられなかったのだ。ハルビアは表情を曇らせて、複雑に微笑んだ。質問されたことを嫌がっているのではなく、これまで気を遣わせていたことに気が咎めたらしかった。
「これは、生まれた時からなんです」
ひざ掛けに覆われた脚をなぜながら、彼女は話す。
「膝は動きます。ですが、どうしても、立ちあがることができないのです。生まれた時からですので、身のまわりのことも慣れています。なにかあれば、町のみんなが助けてくださるので、ほんとうに有難いです。なので、どうかお気遣いなく。それに、私だけではありませんから」
どういうことかと尋ねるまでもなく、ハルビアは言葉を続けた。
「私の家系はみな、生まれついてどこかに
セツは驚いて、息を飲んだ。
「障り、ですか? 詳しく教えていただいても構いませんか?」
「ええ、祖父は視覚に障りがありました。目蓋は硬く塞がれ、最後まで瞳に光を映さなかったそうです。私の父親は耳が聴こえず、言葉も喋れなかったとか。なんとか治療できないかと様々な薬を試されていたそうですが、効果はなく、私が生まれた翌年になくなりました」
「翌年ということはまだお若かったのではないでしょうか。事故だったのですか?」
「いえ、寿命です。老衰といってもいいほどに静かな死だったと、長さまから教えていただきました。私の家系は身体の障りだけではなく、短命をも受け継いでいるのです」
「身体の障りと、短命ですか」
そこまで重なると、偶然とは考えられない。
それは祟りといってもいいほどの。
「父は二十六歳で命を落としました。母親は、私を出産したその晩に。うちの家系では出産の際にはかならず、難産になって、母親も命を落とすのです。祖父は二十三歳の頃になくなり、祖母も私の父親を生んだ時に。私は長さまに引き取られ、ほんとうの親子と変わりなく愛情をもって、育てていただきました。私の父親も長さまに育てられたそうです。だから私にとって長さまは、母親同然なのです」
セツは相づちを打ちながら、思考を巡らせる。頭のなかで散らばっていたかけらが集まり、ひとつの真実を導きだす。気になることは残っているが、推測はあっているはずだ。後は当人が真実を把握しているかどうかだ。
「その、なにか、理由があるのでしょうか」
「残念ながら、なにひとつ、わからないのです。なにかを患っているわけではないようです。他は至って、健康ですから」
彼女が嘘をついている様子はない。
「すみません、話しにくいことを尋ねてしまって」
「そんな……謝らないでください」
セツが頭をさげると、ハルビアは慌てて手を振った。
「私はこの運命を受けいれています」
先祖が若くして生を終えているという事実は、他でもない彼女もそうだと教えていた。
されど彼女の瞳は、微かも揺らいではいなかった。宿命を怨むこともなく受けとめていた。重い雪が積もっても折れることのないたおやかな枝のように、彼女は嘆かない。
心臓が燃えているところに手を添えて。
「私は不幸ではありません」
彼女は言いきった。
「ですが、だからこそ私は、生きているうちに春をみたいのです」
嘆かず、怨まず。
彼女はただ望んでいた。
美しき春の光景を。
得心する。ハルビアが涙を流してまで、冬を終わらせてくださいと頼んだわけがいま、セツにも理解できた。それは彼女の一生を賭けた希望なのだ。成人の儀さえ迎えていない彼女の、最後の願いだった。
春は綺麗ですかと、問い掛けた一言の重みは、彼女の命と同等だ。
「かならず、春を甦らせましょう」
あらためて、言葉にする。
この娘の為に春を迎えてやりたいと、彼はいまさらながらに想っていた。
これまでは違った。春を甦らせるという言葉には偽りはなかったが、季節の循環を戻すのが
だが彼女は、
ただ春を望むだけの。
綺麗な季節にあこがれるだけの。
ハルビアは微笑んで、ぎゅっと指を組んだ。
「実はよい報せがあるのです。城にいく許可をいただけました。長さまのご配慮で、明日の午後に
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」
セツは喜んで礼を言いながら、頭の隅では冷静に思案していた。
自警隊が迎えにくるとはずいぶんな歓待だが、裏がえせば見張りだ。
町の者は旅人を不審がっていた。滞在すればするほどに旅人の立場は悪くなっているに違いない。ハルビアのことが気懸りだ。帰ってきた時もなにかを懸念するような表情をしていた。ただでさえ、この町で春を望むには様々な
彼女だけに頼りすぎてはならない。他になにか、あてを捜しておかなければ。
箒と水桶をもとの場所にかたづけ、セツは外套をつかんだ。
「ちょっと出掛けてきますねぇ。ヨウジュさんにお詫びをしないと」
セツはにっこりとハルビアに笑いかける。
「美味しい晩ご飯を楽しみにしていますよぉ」
外套を着込んでから、彼は左腕でクワイヤを抱きあげた。扉を抜ける。
途端に寒い風が吹きつけてきた。
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