第十四譚 《冬》の長と《春》望む娘

 洞窟のなかでは、焔が燃えていた。

 薪ではなく鉱物の焔だ。この鉱物の焔は数十年に渡り、絶えたことがない。

 焔は黄金だが、薪に移せば、あかあかと燃え始める。この終わらない冬の町の護り神だ。

 洞窟のなかの通路は真直ぐだが、幅がなく、車椅子では通りにくい。だがハルビアは慣れた様子で進んでいく。洞窟の奥には鉱物をめた燭台があり、燭台を取り巻くように大人数が集まれる空間が設けられていた。祭事は年に一度で、普段は会議に使われていた。

 町の北端にあるここは、黄金の焔を管理する者の在家であり、通称長の間だ。

 薄暗がりに目を凝らして、ハルビアが声をかけた。


「おばあさま。私です。お食事を運んできました」


 燭台の側に置かれた揺り椅子には、何者かが腰かけていた。

 頭巾ずきんをかぶったその人物は、緩慢に顔をあげる。


「ハルビアかい。側においで」


 差しだされた手はしわだらけだ。

 頭巾と服のえりに隠されて、顔の細部は窺えない。だが凝視すれば、頬の輪郭にも老いが滲んでいた。背格好、声からすれば、やせ衰えた老婆だと分かる。


「おばあさま、今晩は雪になります。久し振りに積もる雪です」


 ハルビアが側に寄る。


「旅人が、訪れているそうだね」

「ご存知だったのですね」

「長のところに報せがないはずがないよ」


 長はふうと重い息をついた。


「よそ者がこの地を踏むのは、実に七十二年振りかねえ。七十二年前の大雪で冬の砦が築かれてから、何者もこの地に訪れることはできず、この地より立ち去ることもできなかった。それは暗黙の了解でさえない。事実だった。事実だったんだよ。けれど、それが破られた。これは、なにかが変わるね。なにかが」


 終わらない冬の発端を経験したのは、いまとなっては彼女だけだ。

 冬が終わらなくなってから、しばらくは大変だったと聞き及んでいる。幸いにもこの地域には、冬に収穫できる植物や山岳地帯に慣れた家畜がいた。それでもこれだけの穏やかな暮らしを得るまでには、苦節の長き歳月を費やしたのだ。彼女はその頃から長を務めていたわけではない。だが不変なる冬を見続け、極寒の町を受け継いで維持してきた長が、いまどんな表情をして語っているのかは、ハルビアにはわからなかった。


「旅人は、おまえの宿に滞在させているのかい?」

「うちは宿屋ですから」

「違いない」


 くすくすと老婆が笑った。

 笑ってから、ハルビアの様子を窺い、長が尋ねてきた。


「なにか、悩みごとがあるのかい?」

「おばあさまには、お見通しなんですね」

「あたりまえさ。おまえを育ててきたのはこのあたしなんだからね。おまえのことならば、なんでもわかるんだよ。なにかあったのかい? 話してごらん」


 凍える冬から町を護り続けてきた長であっても、ハルビアからすれば、育ての親だった。長からすると、愛娘まなむすめというよりは孫の齢だ。そのせいか、あますぎるところはあったが、血縁などなくともありったけの愛をそそがれ、彼女はこうして曲がらずに育った。


「おばあさまは、春をご存知なんですよね」


 ためらいがちに喋る。一瞬だけ沈黙してから、長は頷いた。


「いまとなっては、春を経験したものはあたしだけかね。最後の春はあたしが、いまのおまえよりも幼い頃だったね。けれど、冬が長すぎた。春のことはほとんど覚えていないんだよ」

「なんで、春がこなくなったんですか?」

「それはねえ。昔々、雪の峰にんでいた春の鹿のところに冬の狼がやってきてね。窓のすきまから美味しそうな果実を差しだして、鹿が窓からのぞいた途端に狼ががぶりと」

「もうっ、わたしはこどもじゃないんですよ」


 昔から繰りかえされたお伽話とぎばなしを話されて、ハルビアがすねたふりをする。こんなふうに振る舞えるのも、本物の親と変わりなく、信頼を寄せているからだ。

 長はふふっと笑って、こまったように息をついた。


「なぜ春がこなくなったのか、それは誰にもわからないんだよ。大雪が続き、冬の砦に町が孤絶こぜつされてそれきり。冬は終わらず、春がこなくなった」

「おばあさまは、春をみたいとは思われないのですか?」


 先ほどよりも沈黙があった。


 老いてまるまった肩が、微かに震えた。あるいは吹雪が激しさを増して、寒気がここまで侵入してきたせいだろうか。昔は洞窟のなかに風が吹き込むなどあり得なかった。黄金の焔の勢いが段々と衰えてきていることが、ハルビアは気に懸かっていた。昔は洞窟の天井を焼くほどだったというその焔は、いまや篝火と大差ない。手をかざしても火傷をすることもなかった。


「考えたことがないねえ」

「どうしてみんな、春をみたいとは思わないのでしょうか」


 いまが豊かだから。平穏だから。なぜ、それだけのことで春を諦められるのか。いや、諦めるということでもない。誰も春に憧れることさえないのだ。胸を焼きつかせることもなく、思いを馳せることもなく、なぜ暮らしていけるのか。


 彼女にはずっと、それが疑問だった。


 春を知らないからだろうか。

 けれど春を経験したはずの長は、春をみたいと考えたことはないと言った。

 春を覚えていないと。

 

 絵本が確かならば、あれほど美しいものが現実に訪れる季節だとすれば、そう簡単に忘れ去ってしまえるものだろうかと、ハルビアは思った。


 長は手を差しだす。厚物を着ながらしおれた花のくきのような腕が、ハルビアの膝に触れた。車椅子からちょこんとつきだした、柔らかさのない膝頭。ひざ掛けをしていても、その頼りなさが分かる。決して大地を踏みしめることのない娘の脚。


「おまえは、誰も春を望まないこの町でたったひとり、春に憧れた」


 長の声は綿雪のように、まどやかだった。

 悪夢にうなされた娘を寝かしつけてくれた時と変わらず。


「よりによって、なんでおまえなんだろうね」


 そう言ったきり、黙り込んで。

 母親がわりの老いた指は、娘の動かない脚をなぜ続けた。

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