第七譚 《春》は綺麗ですか

「私が生まれてから、いえ、ずっと昔から、冬だけが続いているのです。春も秋も夏もありません。この地域には、他の季節など最初からなかったのだと、みんなそう考えて、この寒く、塞がれた土地で暮らしています」


 ひとつひとつ、彼女は懸命に言葉を集めて、重ねる。


「ですから、冬ではない季節のことには誰も触れませんし、ほとんどの子供達は、冬以外の季節があることを知らずに、育っていきます。《春》など、知らないほうが、幸福だからです。だから私もほんとうは、《春》なんて知らないはずだったんです」


 木製の車輪を握り締める指が、震えていた。


「けれど、私は、《春》という季節があることを知りました」


 ハルビアが移動する。

 おそらくは私室だろうと思われる部屋から、彼女は一冊のふるびた絵本を持ってきた。焼けて、黄ばんだ紙からは、ずいぶんと長く置かれているものだということが分かる。だが埃はかぶっておらず、大事に扱われているようだ。


「それはいったい」

「これは、私の父が私にくれた、大事なものです」


 その言葉はやけに重い。セツが尋ねるまでもなく、彼女はその意味を語る。


「実は、父親のことはなにも覚えていないのです。物心がついた頃には、父はすでにいませんでした。この絵本は父が遺してくれた大事な形見かたみなんです。幼い頃から何度も読みかえして、いまでも時々めくっては眺めています」


 あらためて絵本に視線を落とす。


 可愛らしい表紙だ。

 ふわふわの綿毛のような生き物が野を走りまわっている。

 雪を残す野には色が重ねられていた。

 緑に黄、青。果敢はかない淡彩ぱすてるのなかでひとつだけ、あざやかな薄桃。あざやかとはいっても、濃くはない。息を吹きかければ、しおれてしまいそうな。されど、あきらかに際立っている。穏やかでありながら、目蓋まぶたをおろしてもしばらく残り続けるほどに、美しかった。


「これが、私の《春》です」


 羊皮紙ようひし一枚の表紙。めくれば、十数枚のページ

 それだけの、春だ。


 はなびらのあえかな香りもない。露を乗せた若草の柔らかい手触りもない。指を添えても、陽だまりの暖かさも感じられない。


 けれども彼女は、紙の春を抱き締める。


「絵本の最後の頁には、父の直筆があって。私の名前が、この綺麗な季節にちなんだものだと書き添えてありました。私の父親は春にあこがれていました。あこがれていたのだと思います。ですが、この地域には春は巡らないものなのだと、諦めてもいたはずです。ここは常冬とこふゆの地だと教えられていましたから。ですが……これをご覧になってください」


 背表紙にはレイヤ・キュ・ノルテと書かれていた。著者の名前だ。


「ノルテというのは地域姓ちいきせいです。たぶん、言うまでもないことだとは思いますが」

「ということは、この絵本の著者はノルテ地域の《春》を題材にしたと考えるべきでしょうね。故郷の《春》を絵本にした。だからこんなにも優しい筆づかいなんですね」

「これをみて、私はこの地域にも《春》があったのだと。冬だけが、永遠に続いているわけではなかったのだと思って」


 興奮をいったん落ち着かせるように、彼女はふうと胸を萎ませた。

 息もがずに語り続けていた。ハルビアは黙ることを恐れているふうだった。沈黙すれば、冬が窓を割り、襲い掛かってくるのではないかと。細雪ささめまじりの冬の嵐は、いともたやすくひとひらの春をさらっていってしまう。冬の爪が絵本に触れようとするのを振りきるように、彼女は呼吸も浅く、尋ねかけてきた。


「旅人さんは、数多の季節を渡ってこられたのでしょう?」


 セツは頷いた。言葉にするまでもない。


「幾つもの《春》を、ご覧になってこられたのでしょう?」


 彼はもう一度、頷く。普段ならば意気揚々と語りだすところだが、いまは黙って肯定する。

 ハルビアは遂に決意をかためたようだ。


「それでしたら、ひとつだけ、教えてください」


 祈るように胸もとで指を組んで。


「春は、綺麗ですか」


 声は細かった。けれど、こめられたものは、強い。

 積年せきねんの、悲願のような。


「それはあなたが決めてください」


 セツが言った。薄桃の瞳が見張られる、眠りから覚めるように。


「春が綺麗なのかどうか。あなたが見て、聴いて、触れて、それから決めればいい。僕が言えることではないのだから」


 委ねる言葉だが、その真意はそうではなかった。

 ハルビアは唇を震わせる。

 

 彼女は思ってもいなかったはずだ。この永遠に続きそうな冬に塞がれた土地で。白いばかりの山脈の、凍りつくような気候のなかで。

 春を、迎えられるだなんて。


 けれど彼女は疑わない。

 

 戸惑いはしても、決して疑わないだろうと、セツはこれまでの会話のうちに信頼していた。氷と雪に覆われたいまが、春だなんて。よそ者のたわごとを彼女は疑わなかったのだから。

 見込んだ通り、湧きあがる震えをいなして、ハルビアが視線をさだめた。

 瞳に嫌疑の濁りはない。ただ透きとおる。

 桃染の瞳に一瞬、枝角えだづのかかげた鹿の影がよぎった。セツは驚いたが、後にはただ、食堂の風景が映っているだけだった。幻想だったのか? 彼女の瞳が、驚くほどに澄んでいたから、夢が映ったのだろうか。


 気を取りなおして、セツはあらためて職を名乗る。


「僕は、季環師きかんしです」

「季環師、ですか? それは」


季環師きかんしとは季節の循環を観測するものです。季節とは滞りなく循環していくものですが、その循環が妨げられることはあります。冬だけが続いているこの地域のように。小さな地域の、ひとつの季節の不順であっても、やがてはその影響は大地に及びます。季節の循環は、大地の理の要なのです。だから季環師が、僕がいます」


 みずからの胸を指す。


「季環師の役割は季節を読み、季節の循環を滞らせているものを取りのぞくことにあります。季環師は言わば、季節と人の調停者ちょうていしゃなんですよぉ」


 彼は椅子をさげて、大仰な辞儀をする。


「僕らは季節の循環を助けるべく、各地を旅しています。きっとあなたの、ちからになれます」


 微笑んだ。微笑むとまた、目が細くなり、青褐あおかちの光が見て取れなくなる。

 けれど、言葉から響く誠実さに変わりはない。


「いまが春ならば、春であるべきですよ」


 なめらかな頬にすっと、涙が流れた。

 ハルビアが声もなく、泣き始める。暖かなしずくだ。吹雪に打たれてもきっとそれだけは凍らない。頬を濡らしながら、ハルビアは組んだ指にぎゅっとちからをこめた。


「春を、どうか」


 願いをしのぐ、それは祈りだ。

 春を望み続けた娘の。


「この凍りついた地に、春を」


 その言葉を受けて、季環師が強く頷いた。


「季環師がこの地に、あなたに、春を巡らせてみせましょう」

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