第22話 何かのコスプレ?

 多分、今日もいつもと同じ一日。なんて、ちょっとだけ詩人にでもなった気分――な訳もなく、通勤の満員電車で人に押しつぶされて今日もテンションは下がる一方だ。


 転びそうになる体勢を整えるために上げた足が下ろせなくなるとか、本当に勘弁して欲しい。満員電車では人って浮くんだね。まあ、この状態なら転びようもないか。ただ、ちょっと苦しい。


 今の会社に就職して半年が経つけど、この満員電車には未だに慣れない。だけど俺には秘策がある。


「吐きそう……」


 もちろん嘘だ。つい一週間前の大発見なんだけど、この台詞を口にすると斥力が発生して、自分を囲む人たちの力が弱まるのだ。俺、天才かも。




 今日は、仕事帰りに約束をしているから仕事はなるべく早めに切り上げたい。そんな淡い希望を懐きながら職場の入館ゲートを抜ける。エレベーターに乗ると、先客が居た。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」


 ……酒臭い。


 このおっさん、直属の上司なんだけど週の半分くらいは、こうやって酒の匂いをさせて出勤してくる。まあ、どうせ仕事は下に丸投げするだけだし、酒が入っていようが入っていまいが関係ないんだろう。


「そういえば、昨日頼んでおいた書類はできてるか?」

「できてますよ。はい、メモリです」

「おお、いつもすまんな」


 頼まれたのは昨日じゃなくて今日の早朝だけど……。


 翌日の仕事に備えて寝ようと思った矢先に電話が鳴って、忙しいから代わりに作れって一方的に押し付けられた。今日の打ち合わせで使うんだとさ。電話の向こうでは飲み屋のねーちゃんの声がしてたけど、さぞかし重要な案件だったんだろう。


「打ち合わせには同席してくれよ?」

「今日中に終わらせないといけない案件があるんで、今回はちょっと難しいです」

「提出は明日だろ? そっちは明日の朝までに終わっていれば良いから」

「え、今日は夕方にちょっと用事が――」

「じゃあ、打ち合わせのサポートは頼んだよ」


 そう言い残してクソ上司はエレベーターを降りていった。……残業確定かよ。みなし残業のくせに超過分の残業代なんて貰ったこと無いぞ。




 結局、打ち合わせに巻き込まれてしまい、本来の仕事が終わった頃には日が変わってしまっていた。すでに終電の時間も越えているので、また自腹を切ってタクシーで帰らないといけない。


 それはそれで深刻な問題だけど、一番気が重いのは別の要因だったりする。


「あいつら怒ってるだろうなあ」


 わんぱくなガキンチョどもが怒っている様が想像できてしまい、苦笑いが漏れてしまう。


 本来なら、今日は児童養護施設じっかに帰って、施設の子供達と遊ぶはずだったんだけどなあ。……また、何か土産でも持っていってやるか。


 早くに両親を亡くして、引き取ってくれる親戚も居なかった俺は、都内の児童養護施設で育った。こんな俺のことをしっかりと育ててくれた施設の人たちには本当に感謝してる。施設長に至っては大学の奨学金の保証人にまでなってくれた。


 こうやって働けている以上、できれば施設運営の足しに寄付でもできれば良いんだけど、残念ながら今の下っ端な仕事では難しい。俺にできることはたまに仕事帰りに施設に寄って、子供達と遊んで上げることくらいだ。……あ、それもできてねえわ。


 憂鬱な気分になりながら帰り支度を済ませて、誰も居ない事務所の電気を消して戸締まりの確認をする。多分、今日もこのビルに入っている会社のなかで一番最後だ。そう思って周りのビルを見ると、まだ灯りが点いているところもいっぱいあった。……世知辛い世の中だなあ。


 ふと、丸い光が目に入った。


「ああ、今日は満月か」


 いつも下ばっかり向いてるから、空なんて見たの久しぶりだった。そのせいかしばらく満月を眺めて感傷に浸ってしまう。


「……はあ、帰るか。って、あれ?」


 帰ろうと思って振り向いた瞬間、周りの景色が真っ白になっていた。今の今まで、間違いなく会社の中に居た――はずなのに、周りにあったものが全て消えて真っ白な空間に変わってしまっていた。


「なんだよ、これ!? おーい! 誰か!」


 走っても手を振っても何処にもぶち当たらない。大きな声をあげても誰の反応もない。ただただ広くて真っ白な空間。しばらく騒いでみても何も変わらない。


「なん、なんだよ……」


 ――時間感覚までもおかしくなってきた。お腹もすかない、眠くもならない。あれからどれくらい時間が過ぎたのか、指標になるものが何もない。何日も過ぎたのかそれとも数時間、数十分程度なのか……。


 抵抗を諦めて座りこんで絶望に近い思いを抱いていると、目の前に何かが見えた。


「あれは、手か? ――誰かの手だ!」


 慌てて駆け寄ってみると、やっぱり間違いなく誰かの手だった。とてもきめ細かな肌の――。


「って、そんなことどうでもいい!」


 一縷の望みをかけて目の前に浮かぶ手を両手で握りしめると、相手も慌てた様子で手を抜こうとする。放してたまるか!


 すると、急に強い力で引っ張られて、何もない空間に沈むように倒れ込んでしまった。落ちるような感覚、そして何かの柔らかい感触。


「いったたたた、一体何なの?」

「あいたたた、何だよこれ」

「え?」

「え?」


 通るような声に驚いて目を開けると、目の前にはとても印象的な赤い髪の毛の美少女がこちらを見ていた。


 ……何かのコスプレ?

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