シャララシャラララ

明日key

シャララシャラララ

 交差点でギターを手に彼は歌う。刹那、クラクションの絶叫が何重にも混じる。赤信号を無視したトラックが現れる。彼は車体に強くぶち当てられて、歩道から弾かれた。そしてアスファルトの地面に、身体を潰された。

 神経の衝動で全身に痛覚が送られた。だが彼は断末魔の叫びをあげない。痛みを命懸けで無視し、歌詞を続けざまに声にしようとした。悲しいかな、彼は喉も潰れていた。低い声音さえ絞り出せない。

 死ぬのは一向に構わない……だがこの歌だけは、と彼は心の中で嘆く。もはや心の声でしか歌えなかった。しかしながら心の声で歌を口ずさむことすら、少時しか残されていない。

 霧もやがかかったよう視界が濁る中、彼の手前に誰かが歩み寄る。

「おそらく、あなたは死ぬ」

 天使だろうか死神だろうか。女性の声で彼にそう言ってきた。

「でも私は、あなたの死に興味はない」

 酷い言われようだが、好き勝手生きてきた彼には自業自得だ。

「けれどあなたの詩が死ぬことは、この世にとって大きな損失になる。あなたの歌を地の底に沈めるわけにはいかない」

 霧の深みに彼女は沈む。ずぶずぶと身体が地の底へと降りる。そして彼自身もまた地の中へ引きずり込まれる。

「私は、あなたの歌を決して死なせはしない。あなたの歌は人を動かすほどいい歌だから」

 天使だろうか死神だろうか。どちらでもいい。彼の全身の痛みが痺れてくる。全身どころか、心の痛切さも次第に痺れていった。




 久方ぶりに帰ってきた故郷、町の人間は視線が冷たかった。

「相変わらず歓迎されてないな」

「当然でしょ」

 町の人みんなが水守みもりとメルを訝しげに見ている。帰郷して一週間経つが相変わらず反応はこれだ。それも当然で、彼と「彼女」が地元の高校を無断で出ていき、駆け落ち同然に上京した。売れっ子バンドを目指すために。

「満月が、出てもないのに、別嬪の月」

 メルの銀髪ロングを見つめながら唱える、水守の俳句まがいの字余り。

「つまんないわね」

 メルは溜息を零した。ワンピースで過ごすには少々肌寒い十一月の空気を感じる。空が高い場所にあった。蒼穹を超えた先にある月は、風が冷たくなるほど白い。

「俺らの曲、売れねぇかな。いい曲なのにな」

「売れるからいい曲なの? 宣伝をかけて売り捌かれれば、いい曲だって言われるの?」

 本当に、物の見方を断罪するほどメルの正直さに心が折れそうになる。

「歌の宣伝で勝ち取った一万人よりも、歌が動かした人間が一人いる事実のほうが重要だわ」

 この原点に立ち戻りにここに来たのかもしれない。気がつけば水守はこの故郷に足を向けていたから。もしくは、気づけばここにいた、という言い方が正しいか。

 町の総合病院に足を運び、個室病棟へと行き、スライド扉を開けた。

「あ、お姉ちゃん」

 ベッドの上で起き、本を読む刈子かりこが、水守とメルの来訪に気づく。

「彼女」の妹だ。今年で高三になった。

「やぁ、元気そうだね。刈子ちゃん」

「うん、お兄ちゃんもね」

 刈子と水守に血の繋がりはない。刈子が水守と「彼女」との付き合いを応援していた間柄に、彼がバンド活動をする際に刈子は「彼女」の両親とは内緒で、バンド活動の準備などを手伝ってくれた。そのときからお兄ちゃんと呼ぶのがお馴染みに。水守が二十歳を前にお兄ちゃんと呼ばれるのもなんだか気恥ずかしい。

「刈子ちゃん」

 水守は刈子の両手で右手を包み込む。

「手術、受けよう……」

 確率が低くても、生きているうちに彼女の口から同意を引き出したかった。

 帰郷して一番に驚いたことは、先日に刈子が高所から転落したことである。

 頭を強く打ちつけたことが原因で、頭に「血の塊」いわゆる血腫ができたという。先週医者から説明を受け、いま生きていることが信じられないと言う。レントゲン写真を見せられたが血腫の広がり具合はかなり酷かった。手術は難しく成功の率は三割を切ると。明日死んでもおかしくない状況で。

 メルは刈子を説得したと言うが、刈子が首を横に振るばかりと言う。

「できないよ、あたし怖い」

 心の準備もできていない状況ではあるだろう。だが明日死ぬかもしれないこと事態は急ぎだった。ベッドの横には相変わらず手術同意書の用紙が、空欄のまま置いてある。

「俺は刈子ちゃんと別れるの辛いよ、だけど一歩踏み出すだけで……」

「そこに地面がなかったらどうするの? あたし怖いよ」

 勇気が絞り出せないのも無理はない。いま刈子にとって一秒一秒を長く感じている。それを二人が理解できないはずがない。

「ねえ、お兄ちゃん」

「なんだい、刈子ちゃん」

「お姉ちゃんと、お兄ちゃんが作った歌を、あたし聞きたい」

 水守はメルと顔を見合わせる。メルは一回だけ頷いて応えた。


「悔しい、俺たちには何することもできない」

 町を歩きながら水守は悔しそうにそう呟いた。

 メルと並んで歩く町並みは、どことなく寂しそう。まるで二人を迎えていないかのように。あるいは腫れ物にでも触るかのように、町全体が冷たい。

「あなたは何のために曲を作ってきたの?」

「いい歌を歌うためだ」

「人一人を動かせない歌なら、それはいい歌ではない」

 病院を訪れる先でメルが言ったことの復習になる。

「私たちの目的は、いい歌を作ること」

「それがどうしたんだよ?」

「何度言わせるの? 私たちはいつでも人を一人は動かす歌を目指して頑張ってきた」

 だが一度としてそれが叶ったことはない。口コミや宣伝を利用した曲ばかりだった。それは「彼女」自身がわかっているはずだ。寝食を忘れて歌詞に打ち込んでも、「彼女」にはそれができない。

「一度としてそれができてない」

 声を潜めメルに話す。それで動じるメルではない。

「刈子を動かそう、私たちの歌で」

「俺は……」

 交差点に差しかかる。電信柱に花束が添えられていた。

 それに気づくなりメルは花束を鷲掴みにする。そばにあった弁当屋にまで歩いていき、設けられたゴミ箱に放り込む。

「何をしてる!」

 メルの非常識な行動に、水守は我慢ならない顔で迫る。

「ここで交通事故遭ったんだぞ。知らないのか?」

「それで?」

「人が亡くなってるんだぞ、そのための花だぞ、死者を弔う意味がわからないのか!」

「……これは酷い悪戯よ」

 そう言いながら、メルは水守を半分置いてきぼりにして、先を歩く。

 先日事故が遭った交差点。歩道には曲がったポール、チョークの跡、そして赤い染みが残っていた。

 それから二人は公園まで行った。寂れた公園で児童の一人もいない。どれだけ二人が歌で騒ごうが、一抹の寂しさはそこにある。

 夕焼けが山の端を際立たす。東屋に設置されたベンチに腰を下ろしていた。

 ギターの調べを弾きながら、沈鬱な表情を水守は浮かべる。

「あの歌を歌おうよ」

 そう言うなり彼女は歌詞カードを手渡す。

「私ね、これを人に伝えるために生きてきた」

「死ぬな」

 生きてきたと、そう言うだけで、これから死ぬということを連想させる。とても不吉だった。

「死なないわ、永遠に死なない」

 人は死ぬ。けれど歌や絵画は伝えることができる。人の心を射止めれば、作品は永遠に残る。人の肉体が滅んでも、人の心が永遠に生きる可能性を示す。「彼女」は何よりもそのことを望んで歌詞を書いてきた。

 何より「彼女」はこの水守に感謝をしていた。こうやって自分が永遠に生きる生き方を、時おり跛行ながらも歩んできたのだから。

 これで刈子を動かせなければ、自分たちの行ないはすべて無駄だったも同じ。

「ありがとね、水守くん」

 胸を押さえながら背中を震わせるメルを、水守は笑顔で答える。

 この歌は刈子を動かすための一曲、そして「彼女」が込めた感謝の気持ちそのものだ。


   ◆


 決して動けなかった私をあなたが動かしてくれた。だから今度は私が水守くんを動かす。

 細い糸となって降っていた長雨が晴れた二年生の秋。

 その光景を見たとき、やるせなさが喉の奥からこみ上げてきそうだった。

 どこで手に入れたのか水守くん。私が書いた詩を、あなたは悪戯半分で勝手に歌にした。私は水守くんを酷く責め立てた。

 もう本当に悪戯半分で。きちんとした歌にしてくれたあなたの半分は本気だったよ。

 あなたのギターが何度も思い出され、私の耳朶と琴線を震わせていたのだから。それはきっとあとあとに、想い出の一部になるのだろうと、時すでに確信していた。

 そのあと、水守くんが謝りに来る。

 枯れ葉が降りた下校の道で、空の高みからの秋風に髪が触れる。

 私の怒りは切なさで冷めていった。

 次の日、私は書きためていた詩をすべてあなたに押しつけ、すべてを歌にするよう無茶な要求を突きつけた。当然の報いだ。

 それから多くの詩を書いて、あなたはメロディを乗せて歌ってくれた。まだあなたと抱きしめ合ったことすらなかったのに、胸はいつも暖かかった。

「東京へ行こう」と言う。

 十月末、学校の廊下であなたが突然のその言葉。私は心臓が跳ね上がった。

 あなたは音楽で食べていくんだと言う。

 そして私に髪を銀色に染めて自分についてくるよう、無謀な要求を呑ませようとした。

 なんで銀色に染めなくてはいけないのか。

「君の髪が銀色になったら、夜空の下に白い月が現れたように想像できるんだ」

 わけがわからない、そしてその上こんな注文までする。

「そしてその綺麗な声で歌ってくれ」

「どうしてそんなことを要求するの?」

 そんなわけのわからないポエムを言ったって。私にアルテミスになれと、セイレーンになれと言うのか。

「これは俺の歌じゃない、君の歌だ。俺は君の夢まで買ったわけじゃない、君の夢に君を乗せてあげたいんだ」

 細くした瞳で浸る逡巡で私ができるのは、早すぎる木枯らしが揺さぶる窓ガラスに目を逸らせるだけで。


 それからしばらく経ったとき、水守くんは学校に来なくなった。

 噂で聞いたよ、学校で禁止されているのにバンドを立ち上げようとして、謹慎処分を食らったって。

 私の両親は水守くんと付き合うことをかねてから頑なに反対していた。私の心の詩をただ一人、歌の形にしてくれる水守くんに会えなくなった。門限の檻で家を閉ざし、学校と家を行き来するだけで実質ラプンツェルも同然で。

 そのとき私は冷たい寂しさに襲われる。不思議だね、私はラプンツェルなのに、わざわざ塔から身を乗り出して、冷たい風に吹かれているなんて。

 夏の名残はすでに涼しさで失せ、もう陽炎の虚像も見えない。

 夜長の外気が窓越しに居座る。私は二階の自室で、明かりをぼんやりと照らしながら詩を書く。平安京でもないのに。

 窓にこつんと当たる音がする。

 何かと思い窓を開け、目下の屋根瓦に紙飛行機があった。千代紙で折られた雅な飛行機だった。

「開け」とサインペンで書かれていて、試みに折られた紙飛行機を真四角の形に開くと、そこにはこう書かれている。

 励起する蛍光灯が、「もっと詩をくれ」という彼の声を浮かばせた。

 家の庭と対面する道路に、自転車の小さなライトが光る。ラプンツェルの塔の高みから、王子様には似つかわしい水守くんの姿がある。

 バカみたいに手を振っていて、無言で「詩をくれ」と言わんばかりに、親指を彼の顎先に突きつけた。

 私はちょうどいま完成した詩のノートを破り、飛行機に折って飛ばす。

 うまくキャッチして水守くんは鷹揚に笑顔を見せ、自転車で帰っていく。

 本当に、世は平安京でもないのに。


 彼は学校から自由になった。

 正式に学校に来なくていいと言われたと、退学処分の通知を見せて、水守くんは笑っていた。

 時おりにCDを焼いて私の詩を歌ったものをくれる。その義理で付き合っていたけれど。これでもう縁を切る機会だ。付き合いを止める言葉を放とうと。だがその前に水守くんは口を開く。

「これからも詩をくれ」

 呆れて物が言えない。

「私はあなたのゴーストライターじゃない」

「俺は一度も俺の歌と称したつもりはない」

「じゃあ、何? 私の歌としてどうやって歌っているの?」

「どうやって歌ってるのかって? 君の歌として歌える方法があったらとっくにしてる」

 質が悪い。

「だから君に歌って欲しいんだ。その綺麗な声で」

 確かに友人からは、ガラスのように透き通った声だとは言われている。といっても私には実感がなかったけれど。

「お断り」

「君の夢は俺の夢じゃないんだ!」

 どこまで私に夢を押しつけるのか。

 もちろん、私の詩を私が望む形にして人に伝えたいと、私はかねてから請い願っていた。

 もし私の詩が、歌の形になることで人を動かす力になるとしたらどうなる。

「できないよ、私には勇気がないから」

「君の詩が勇気をくれた、少なくとも俺は君から勇気をもらった」

「勇気をもらってどうしたの?」

「学校への反骨心を体現した」

「さよなら」

 それから彼との交流は途絶した。

 学園祭が始まった。一般開放された学内で私は始終帽子を深く被っていた。水守くんが学校に来ると密かに噂に。

 私は密かに待っていた。

 学園祭の体育館ステージに私は対面した。帽子を深々と被りながら、その瞬間が来るのを待つ。

 けれど水守くんが来ないまま司会が「これでお開きです。みんなありがとう」と言いながら、拍手が巻き起こったそのときだった。

「ちょっと待った!」

 ステージの真横から、水守くんが登場する。

 壇上に足をかけようとしたところを先生が止めに入ろうとする。

 だがそれを振り払い、ステージに上がった。

「演出かな?」「どっちでもいいでしょ」「面白そう」

 と生徒がおのおのに言いながら、マイクを司会から奪い取ってから、アコースティックギターを弾き始めた。そして生徒から拍手の嵐が巻き起こるとセッティングされた椅子から立ち上がり、皆々がステージの周囲で群衆と化す。これで先生は止めることはできなくなった、もう誰も止められなかった。

 そして私の詩を歌う。

 この生徒たちはおそらくハプニングを楽しんでいたのだと思う。おそらく私の詩など耳に入ってなかっただろう。

 一曲歌い終えると、水守くんは聴衆の中から私を見つけ出して、目線を合わしてきた。

 ひとつだけ頷き、私の名を呼んで、「上がってこいよ、ここは君のステージだ」と俄に叫ぶ。

 そのときを待っていた。そこで帽子を取り去り、私は銀色の月を晒す。観衆が私を見て、沸く、そしてどよめく。

 水守くんが伸ばす手に引き上げられ、私は私のステージへと立ったのだ。水守くんが私のためのステージに立たせてくれたのだ。

 私は心の箍が外れたように、心地よい自由に全身で触れる。

 二曲三曲と歌ってから、水守くんは「俺についてこい、君の夢を叶えてやる」と言う。それに私は「うん」と言って水守くんの手を強く握りしめ、一緒に生きるという、はじめての決心をした。

 群衆の中にもみくちゃに紛れ、体育館を脱出して、私と水守くんは電車に乗って東京を目指した。その夜に家から留守番電話の着信が入っていて、私は両親から勘当同然に親子の関係を解消、仕方がない。これから待ち受ける自由がたとえ理不尽なものだとしても、その自由に私の夢があるだろうことを期待した。

 決して動けなかった私をあなたが動かしてくれた。だから今度は私が水守くんを動かす。


   ◆


 夜の公園に佇み水守たちは歌う。メルと一緒に。

 ふいと街灯の中に一人の人影が映り込む。

 刈子だった。

 驚いて水守は声が止まりそうになるが、メルが手を伸ばして制止する。それに応じて水守は歌唱を続けた。水守たち二人が、これまでの後悔を血肉にするために歌った。


 ありがとう

 その言葉だけで 私の言葉は 支えられた 

 ありがとう

 私を私らしく 生かしてくれた 君にありがとう

 だから……だから……。


 しんとした夜の空気。ギターの弦がまだ震えていた。メルの身体もわずかに震えている、身体に熱りを纏って。

 一寸の秒のあと、拍手が響く。パジャマ姿でジャンパーを一枚羽織っただけの刈子が手を叩きながら、こちらに歩を進めてきた。

「刈子ちゃん」

「ごめんなさい……」

 装いからして病院を抜け出してきただろうことは容易に理解できる。

「駄目だろ刈子ちゃん、勝手にこんなところに来ちゃ」

「とてもいい歌だった。涙を我慢するだけで精一杯だった。あたしは……」

 そう言ってから水守は、刈子の小柄な身体を優しく抱きしめた。

 触れた肩が震えていて、壊れてしまいそうな小柄で。

 メルも刈子に近づき、彼女も刈子と軽く抱き合う。「よかったね」と言いながら。

「お兄ちゃんは、あたしのために、なんでもしてくれる。そういう人だって思っていいんだよね?」

 詩にメロディと心を入れた以上、その申し出を断るわけにはいかない。

「お兄ちゃん、お願いがあるの」

「なんでも言ってくれ」

「あたしに手術同意書にサインをさせて」

 メルと水守が互いに向き合って、笑みを含んで目配せをする。だが、メルの顔は真剣な真面目さが強い顔つきだった。

「そして、あたしにひとつ謝らせて」

「水臭いな、なんだ?」

「あたしは」

 涙目に言葉にしながら刈子は、頭にがっちり巻かれた包帯に手をかけた。するするとほどいていく。

 白い街灯でもそれはわかった。彼女の頭は傷らしき傷がなかった。

「嘘をついていた。あたし本当は怪我なんてしてないの」

「えっ?」

 水守は困惑の表情を浮かべる。

 メルのほうを見る水守。メルは知っていたのだろうか、腕組みをして冷静な目つきで水守を見ていた。


 深夜の病院、病棟の一室に水守たちは案内された。

 そこに一人の男が眠っている。

 包帯を身体中に巻き、傷が痛々しくて、いつ死んでもおかしくない。

 水守にとってその顔は最も馴染みのある顔だった。

 それも当然だ。なぜならそこに眠っているのは「水守」彼自身。

「これは、何の悪戯だ?」

「お兄ちゃんはこの町に帰ってきた。そしてお姉ちゃんの詩を持ち帰ってきた一週間前、お兄ちゃんはトラックに撥ねられたんだよ」

 息を呑む、鳥肌が立つ、水守の身体から汗が搾られる。

 刈子が高所から落ちて頭を打ちつけた、というのはでっち上げで。ここの医師にも協力してもらった。噂が伝わるのが早かったせいで、町の人間は冷たい目で二人を見ていた。

 あのとき血腫の映ったレントゲン写真も、刈子のではない。水守のレントゲン写真だったのだ。

 すべてはメルと刈子によって作られた計らい。

「お兄ちゃんが病院に運ばれたとき、すぐにあたしがその知らせを聞いたんだよ」

 水守は彼女に目を合わせる。彼と「彼女」の両親は絶縁状態にあるから、死なせてやれという態度を取るのも当然。

 当初は病院のケースワーカーが同意書にサインするはずだった。しかし、そこに刈子が待ったをかけてきた。

 基本的に手術同意書は親御のサインでなくてもいい、知人でもいい。その唯一の刈子が同意しなかったから、水守はこの眠ったままベッドに放置され続けてきたのだ。

「あなたはこの歌をどうしても伝えたかった。その執念があなたを現世に引き止めたのよ」

 だから水守は医学的には意識不明で眠ったまま、この地にかろうじて繋ぎ止められている。

 いま水守が触れているもの見ているものは、水守が見ている夢かもしれない。現世の夢を見ながら水守はいま二人と話をしている。それがどういう状況なのか理解もできない。けれど水守の死は刻一刻と近づきつつある。

 メルは水守の肩をぽんと叩く。

 そして彼の背中を押すように、歌を口ずさむ。


 ありがとう

 その言葉だけで 私の言葉は 支えられた 

 ありがとう

 私を私らしく 生かしてくれた 君にありがとう

 だから……だから……。


「だから? なんだよ」

「わかるでしょ?」

 水守はまっすぐメルを見据える。

「ある女の子はあなたの歌で動かされた。そして今日あなたの歌で刈子を動かしたの」

 人一人すらも動かすことができなければ、それはいい曲ではない。

「あなたもあなたの歌によって動いて欲しいの。それは理不尽かもしれない。けれど、いい曲がそういうものだから、あなた自身もあなたを歌で縛って欲しいの」

 しんと静まる。いまなお眠っている水守の呼吸する音だけが、病室に聞こえるのみ。

 やがて。

「まんまと嵌められたもんだ。その言葉の枷、受け取ってやるよ。何より俺はその歌をいい歌だと思ってるから。歌に背中向けるんじゃ格好悪いしな」

 水守は歌に背中を押され、早急に彼の身体は手術室に運ばれる。


 気づけば水守は外気と一体化するよう、意識が夜に溶かされていた。

 自分と夜闇の区別が曖昧になった彼は、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。

 彷徨うとはこういうことなのだろう。だが自分が彷徨っていることすらも水守には理解できない。曖昧模糊とした感覚で意識の形が保てなくなったときだった。

 ひとつのハレーションが世界の闇を切り裂き、世界を光へと変えた。そこに一人の女の子が現れる。

「誰だ、君は?」

 そこに現れたのは、銀色の月影のように威風と美を持った「彼女」の姿だった。

「メ……」

「ひさしぶりに会えたね、水守くん」

 らしくもない笑顔を見せる「彼女」。なぜそこにいるのかわからない。

「ありがとう、私の詩を残してくれて……あなたの言葉が嬉しかった。そのときの感動を形に残せてよかった。そしてそれをあなたが残してくれて……」

 二人とも涙が自然と出てくる。衝動的に彼女を抱きしめたくなり、水守が「彼女」に歩み寄ろうとした。

「来ないで!」

 腕を尋に拡げて、水守の脚をそこに留めさせる。

「私はあなたに生かされてきた。今度は私があなたを生かす」

 煉獄は闇か。この世もあの世も、光の満ちた場所。「彼女」は水守にこの世に戻って欲しいと懇願する。

「大丈夫だよ、また会えるから。あなたが歌ったように、私はまた会えるから。だから……」

「メ……」

「私はいつまでも待ってるから。できる限り、そこに留まっていて……この約束を枷にして、水守くん!」

 そこではじめて水守は気づく。思い出した。「彼女」がすでに死んでいることを。そして現世に水守を導いてくれたのが、「彼女」ではないことを。

 水守が愛し、水守がかつて夢を見させた人間、それはメルではなく……

「……芽依めい!」


 手術室の前にある冷たい長椅子にメルと刈子が背中をつけている。

「あたし、お姉ちゃんに聞きたいことがある」

「何?」

「お姉ちゃんは……いや、それよりも」

 少しだけ怒りを含んで刈子はメルを見る。

「あなた、誰?」

 水守と行動を共にしていた「彼女」芽依は、この歌を完成させた後、自分の使命を終えたとして、永遠の眠りについた。十八歳も終わりを迎えようとしてた晩年、芽依は寝食を忘れ、歌詞に心血を注いだ。

「交通事故で、眠っていたお兄ちゃんを生き霊で連れてきたのはあなた。その前後あたしにどう振る舞うべきか教えたのもあなた」

 水守に歌わせるためメルは刈子に教えた。真実を容易に教えない、水守の要求を早急に呑まない。

「あなたは私のお姉ちゃんではない。そこは確信を持てる。あなたは誰なの?」

 メルの端整は、あらゆる思い人の面影の名残のように創られた顔。水守はメルに違和感を感じなかった。メルを「彼女」と信じて疑わなかった。

 けれど刈子は誤魔化せなかったのだと悟る。

「私の名前は、メル・アイヴィー。図らずもあの世へ逝った音楽を、この世に呼び戻す者」

 人は人生を紡ぐ。そこで手にした想いを作品に込める。ある人は小説に、ある人は絵画に、ある人は歌に想いを込める。人生は作品だ。

 こんなことを話して、盲目に信じる人はいない。死の向こう側を見た人が嘘吐き呼ばわりされるように。でも刈子は真剣にメルの話に耳を傾ける。

「私がやったことは、水守と芽依の二人が創った歌を気に入ったから。冥界に沈めたくない、そう思っただけ」

 人の死に興味はないが、すべてはメルの気まぐれ。いいと思った歌を地の底に沈めない想いだけで必死だった。

 刈子がありがとう、と言う。メルは長椅子から立ち上がる。

「じゃあね」

「行っちゃうの? メルさん」

 いい曲をこの世に残せず、逝ってしまった人がまだ大勢いる。世界を音楽で満ちさせたい。残せずに散った曲は、みんなメルのお気に入りだから。

 一度だけ振り返って笑顔を見せる。

 そしてメルはそこからすうっと病院の廊下に佇む闇に溶けて消える。

 銀色の月が夜空に浮かんでいるのを、冷たい窓辺に刈子は目にした。

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