雨の日は空が暗くなるから嫌だ。

靑命

本編

 最初は些細なことだった。

 ぼくがいつものように机の上に置いてある灰皿の中身を捨て忘れて、それを、彼女が掃除をしている最中に誤って床に撒き散らしたのが発端で。

 その日、虫の居所の悪かった彼女は、灰殻を定期的に捨てないままでいたぼくを責め立てた。

 ぼくは、ガラスの灰皿を拾い上げてヒビの入っていないことを確認してから、反論した。捨てるつもりだったのだと。それを台無しにしたのはお前であると。

 あまりにも幼稚で、馬鹿らしい争いだった。

 どちらかが掃除機でもってそのゴミを処理し、以降お互いに気をつけよう。それで話は終わるはずだった。

 けれど、雨が降っていたから。午後三時であったにも関わらず、分厚い雲によって日光が差し込まない部屋の中は、ひどく薄暗かったから。ぼくたちは勝手に苛立ちを増幅させ、部屋に響く声は大きくなっていった。

 ――そして。

「あんたなんて死ねばいいのよ」

 その一言で、今まで体にこもっていた熱が、怒りとともにすうっと引いていくのを感じた。

 気づけば、フローリングの床に広がっていたのは、吸殻、ガラスの破片、そして彼女の頭部から流れ出す血。

 ぼくの息は荒くなっていて、彼女は動かなくて、視線を感じたベランダの外には誰もいなかったけど雨が降り続けていて。

「……隠さなきゃ」

 空が暗くなかったら、ぼくは彼女を殺さなかったかもしれない。

 暗いから人を運んでもバレないだろう、なんて思わなかったかもしれない。

 ホームセンターでシャベルを買って、軽自動車に彼女を乗せ、走らせた。

 途中で、彼女との思い出の場所をいくつも通り過ぎたが、そんなものは今のうちに手放さなきゃという焦燥感に駆られて、ただアクセルを踏み続けた。

 一時間後、着いたのは、県境にある近くに集落も何も無いただの山。

 車で、行ける場所まで行ってみた。普段から運転慣れしていたぼくにとっても、人の手が中途半端にしか入っていない林道というのは、想像以上に険しかった。

 それに、雨は未だ降り続けていて、すごく視界が悪い。ぼくは、これ以上ないほど集中してハンドルを切った。

 車内ががくんと大きく揺れると、彼女がぼくの肩に頭を乗せてきた。それを押し戻すのに気を遣っている余裕はない。彼女はまるで疲れて眠っているだけのように思えた。

 そのうち、道が一回り細くなってきて、ここを進みすぎると引き返せないと判断したぼくは、車を停めた。

 停めた場所から右側に、やや下り坂の獣道が続いている。その先に目を凝らすと、少し開けた場所があった。

 ぼくはまず、そこに彼女を運ぼうと思った。

 雨の中おぶった彼女からは、すでに温もりが消えていた。

 かつてここに住んでいた、獣の寝床だろうか。人一人が横になっても十分なスペースのある場所に到達した。

 彼女を土の上に転がす。それから、車に戻って、後部座席に置いた新品のシャベルを取り出した。

 雨を吸った土は柔らかくて。

 ぼくらの匂いは雨にかき消されて。

 動物に掘り返されたりしないよう、念入りに、結構な深さを掘った。

「死ねばいいなんて言ったキミが悪いんだよ」

 彼女の半開きになった眼に土が被さっていく。口にも鼻にも、彼女だといえるものの全てが、ぼくの手によって半永久的に隠されようとしていた。

 そうして、ぼくは作業を終えた。時間で言うと一時間半。時刻は六時を回っている。早く引き返さなきゃ。

 泥だらけの手や服を見つめて、ああ、汚れてしまったなあと思った。

 その両手の先、さっき彼女を埋めた場所が、少しもぞりと動いた気がして、ぼくはハッとしてそこを見た。

 ――土は、動いてなんかいなかった。もしかすると、彼女の最後の抵抗が見せた幻覚だったかもしれない。

「……いやだなあ、まるでぼくが悪いみたいじゃないか。

 悪いのはキミだ。それから、天気だ。ぼくは悪くない。そうだろ?」

 そこに跪いて、ぽつりと呟いた。返事はなかった。

 車内に戻って、エンジンをかける前に一服しようとしたぼくは、ライターがないことに気がついた。

 そういえば、彼女はぼくが喫いすぎるのを不安がっていた。だから、すぐに喫煙してしまわないように、ライターは彼女が管理していたのだった。

 喫う時はいつも、彼女がそばに来てくれて、眉を下げ、しょうがないわねなどと言いながら、毎回火を点けてくれたのだ。

 しかし、いつの間にかそれを当然のことだと思うようになり、火を強請る時もぼくは高圧的な態度になっていった。それに伴って、彼女も無言で火を点けるようになった。

 今も、きっと、彼女のポケットの中にあるのだろうそれは、彼女がぼくの誕生日プレゼントにと買ってくれたものだった。

 彼女がライターを管理する、と宣言した時、結局キミが持つのかい、と笑ったことを覚えている。彼女は、しょうがないじゃない、アナタがそこまで喫う人だったなんて思わなかったのだから、と笑い返してくれた。

 いつからだろう、そんな会話も少なくなったのは。

 しかし、それらの出来事をぼくは思い出してしまった。すると、今まで蓋をしていた彼女への想いや一緒に過ごした記憶が、堰を切ったかのように頭の中に蘇ってきた。

 でも、もうおしまいだ。ぼくが全部をぶち壊してしまったから。

「……これだから、雨の日は」

 ぼくは顔を、空から降り注いできた水ではない、別のものでぐしゃぐしゃにしていた。

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雨の日は空が暗くなるから嫌だ。 靑命 @blue_life

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