ワトソン博士の手記
十月二十三日
およそ半月ほど関わってきた、バスカヴィル家の犬に関わる事件は、ようやく幕を下ろした。なんとも中途半端な幕切れだったが。
犯人のジャック・ステイプルトンは消息不明、おまけに魔犬は本物ときたものだ。銃弾は間違いなく命中していたのに、あの怪物にはいっさい通用しなかった。この事件をありのまま本に書いたら、確実に読者のひんしゅくを買ってしまう。というより、実際の出来事だと信じてもらえないだろう。何とか現実らしく改変しなければならない。具体的にどうするかは今のところ見当もつかないが。形にするまでにはかなり時間を要しそうだ。ただでさえ出版社から次回作を催促されているというのに。
ホームズの手がける依頼は守秘義務の都合上、時間を置かなければ明かせないものも多い。例えばボヘミア王のスキャンダルや、海軍条約文書の紛失事件などがそれにあたる。しかし今回の場合、そういった障害は存在しないというのに、ただただ私の未熟さゆえに発表が遅れてしまうとは。まったく難儀なものだ。
とはいえ、私はまだマシなほうが。魔犬に与えられたショックは、むしろホームズのほうが大きいと言えるだろう。
シャーロック・ホームズの探偵術において、「不可能を消去したとき、残っているものが何であろうと、どんなにありえなそうでも、それが真実でなければならない」というのが原則だった。だが今回の事件で、彼は気づいてしまった。ある事象を不可能と、ありえないと判断するおのれの物差しは、精密さが保証されていないと。
いっそコカインに逃げてくれたほうがよかったかもしれない。彼は今、幽霊が密室殺人を起こした場合について、何度も真剣にシミュレーションを重ねている。昨夜はマグレガー・メイザースとエレナ・ブラヴァツキー夫人などオカルティスト宛に手紙を書いていた。
「なあワトソン……思ったんだが、幽霊ならポルターガイストで被害者を首吊り自殺に見せかけて殺すより、呪いで病死させたほうが完全犯罪になりえるのではないか……?」
「知らないよそんなこと」
「だがきみは自然な病死と、呪いによる病死を検死で見分けられると思うか? 僕は不可能だと思う」
「そうだね……」
正直もうウンザリだった。もし私がメアリーと結婚しておらず、この下宿を出ていなかったら、とてもではないが耐えられなかっただろう。
「ワトソン。おい、ワトソン」
「なんだい? チェンジリングを双子トリックに応用できるかどうかは怪しいと思うよ」
「違う。依頼人のお出ましだ」
ホームズにうながされて窓の外を見ると、イロナ・コルヴァンが玄関をノックするところだった。
「カギは開いていますよ。どうぞ上がってください」
われわれの部屋へ入ってきた彼女は、半年前に会ったときと違って、ひどく余裕のない表情をしていた。
伯爵の事件に関しては、ほかに緊急性の高い依頼が重なったせいもあり、結局ほとんど捜査は進んでいなかった。彼女からの依頼はすでに取り下げられているのだが。しかし彼女の気が変わって再度依頼しようというのなら、ホームズもやぶさかではないだろう。
だが彼女の用件は、完全にこちらが想定外のものだった。
「モリアーティ教授はどこ?」彼女は半年前のやわらかな物腰を捨て去り、居丈高に告げた。「ジェームズ・モリアーティの居場所よ。捜して。名探偵のおまえなら突き止められるはずだわ」
「これはまた意外な名前が出てきましたね。あなたのような敬虔な修道女が、犯罪のナポレオンにいったい何のご用で?」
モリアーティと聞いて、私もおどろきを隠せなかった。ホームズいわく、ロンドンで起こる事件の半分に関与しているという男。犯罪者の帝王。今年の始めにわれわれが関わった、恐怖の谷にまつわる事件でも裏で暗躍していた。
「何のご用? 何のご用ですって? わたしはモリアーティに裏切られたの。その理由を問い詰めないといけないわ」
「モリアーティ教授はロンドンに堂々と自宅を構えています。なにせ彼が犯罪に関わった証拠はどこにもありませんからね」
「自宅なら当然行ったに決まっているでしょう。そこがもぬけのからだった上、白昼堂々ヤツの手下に命を狙われたから、こうしておまえに尋ねているの。それでどうなのかしら? 見つけられる?」
「残念ながら、彼が本気で身を隠したとなると、見つけ出すのは非常に困難と言わざるをえません。そこで提案ですが、何があったのかくわしく教えていただけませんか。モリアーティが裏切った理由を、ある程度推理できるかもしれません」
「半年前にモリアーティは言ったわ。自分たちの仕事を手伝ってくれたら、代わりに彼の組織力でヘルシングたちを見つけてくれると。でもわたしに頼んでおきながら、半年かかった仕事を最後の最後で妨害した上、約束を守ることなくゆくえをくらませたの」
「あなたがモリアーティに頼まれた仕事というのは?」
「話す必要がある? それは約束と直接関係しないわ」
「関係するかしないか判断するのは僕です。僕は依頼人に隠し事をされるのは好みません。……とはいえ、この事件の構図は非常に単純ですね。すでにおおよその見当はつきました」
「本当に? さすがは名探偵シャーロック・ホームズね」
「お褒めにあずかり光栄です。推理と呼べるほどの段階ではありませんが、それでよければお伝えしましょう」
「かまわないわ」
「では、さっそく結論から申し上げましょう。急いでトランシルヴァニアへ帰ったほうがよろしいかと」
ホームズの藪から棒な警告に、イロナ・コルヴァンは怪訝そうに首をかしげた。「どういう意味?」
「あなたがおっしゃったとおり、モリアーティからの依頼自体は枝葉に過ぎません。肝心なのは、半年間もあなたの行動を縛っていた点です。最初からなのか、それとも途中から方針を切り替えたのかは不明ですが、とにかくあなたに頼んだ仕事は、ただあなたをトランシルヴァニアへ帰さないためのものだった」
「……よくわからないわ。わたしにどうしても仕事を手伝わせたかったから、帰国させなかったわけじゃないのよね」
「ええ。ようするにモリアーティの狙いは、あなたをトランシルヴァニアから留守にしておくことが目的だったのですよ。ひょっとしてあなたは何か、故郷に貴重な宝物をお持ちなのでは?」
その指摘を受けて、彼女の顔色がみるみる青白くなった。もともと色白ではあったが、その姿はまるで死体のようだった。
「ええ、いえ、でも、待って、そんな、まさか」
「どうやら相当価値のあるものを保管しておいでのようですね。その事実をモリアーティが知ったとすれば、放置しておくわけがありません。当然、盗み出そうとするでしょう。いえ、こうしてあなたを放置している以上、すでに事は済んでしまったかと」
彼女は椅子から立ち上がったが、貧血を起こしたように倒れかかったので、とっさに私が身体を支えた。
「ああ、なんてこと……なんてことなの……わたしの宝が、聖ジョージの宝……いえ、そんなことよりわたしの生徒たちは――」
「生徒?」
「……修道院のシスターたちよ。留守を守ってくれている」
ホームズいわく、彼女は偽シスターという話だったから、実際には屋敷の使用人かもしれない。しかし留守番がいたとなると、ホームズの推理は辻褄が合わなかった。手ごわい番犬や腕っぷしの強い男衆を排除したというのならともかく、彼女はかよわい女性に過ぎないではないか。いてもいなくても同じことだ。
「礼を言っておくわシャーロック・ホームズ。報酬はいかほど?」
「結構です。この程度の推論でお代はいただけませんから。帰りの旅費の足しにでもしてください」
「そう。ありがとう。さようなら」
最後にそれだけ告げるや、彼女は慌ただしく飛び出していった。
そこで私はようやく、みずからの不明を恥じた。モリアーティの手下たちが押し入ったのなら、留守番をしていた者たちはどうなった? ああ、無事であればいいのだが!
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