十月十九日

 ジャック・ステイプルトンはホームズに疑われていると自覚し、最後の勝負へ打って出ることにしました。サー・ヘンリー・バスカヴィルをメリピット・ハウスでの夕食に招待して、その帰り道を魔犬に襲わせようという算段でした。

 当然、ホームズもこれが罠だと気づいているでしょう。サー・ヘンリーの危機にいつでも駆けつけられるよう、近くに身を潜めて待機しているはずです。しかしそうはさせません。わたしは魔術で、グリンペンの沼地から深い霧を発生させました。霧は徐々に広がっていき、ダートムーアの地を覆いつくすでしょう。ホームズたちが気づいたときには手遅れです。サー・へンリーの姿を霧で見失ってしまえば、駆けつけたくとも駆けつけられません。

 また、念のためポーロックを通じ、夕食の材料には絶対にニンニクを使わせないよう伝えておきました。魔犬はニンニクの匂いが苦手だとか適当な理由で。あながち嘘ではありません。

 とうとうそのときがやってきました。夕食会を終えたサー・ヘンリーが、メリピット・ハウスから出てきました。あまりの霧の濃さにおどろいてか、足早にバスカヴィル館へと歩き出しました。

 わたしは分厚い霧の壁から飛び出して、サー・ヘンリーのほうへ駆けました。背後のほうで何発か銃声が連続して、塵となったわたしの身体をすり抜けていきました。ムダなことです。すばらしい銃の腕前ですが、夜の魔女には無意味なのです。

 銃声でサー・ヘンリーがわたしの姿に気づきました。月光に照らされた彼の顔は白く、恐怖で硬直して一歩も動けないようでした。さしずめメデューサのひとにらみで石化したかのように。ただ女のような悲鳴を何度も上げるだけでした。

 わたしは低くうなってサー・ヘンリーに飛びかかり、地面へと押し倒しました。そして、いよいよ喉笛を食いちぎろうとして――断念せざるをえなくなりました。

 ホームズがギリギリで銃弾五発を命中させましたが、もちろんそのせいではありません。先ほどと同じように、銃弾はわたしを傷つけることなくすり抜けました。では、なぜやめたのか?

 それはサー・ヘンリーの口臭から、あの忌々しいニンニクの香りがただよってきたからです。これではいくら殺したくても手が出せません。〝きれいは 汚い。汚いはきれい。〟悪魔や吸血鬼にとって聖なるものや清らかなるものは、汚物も同然なのです。例えるなら、糞を素手で触れとか食えとかいうのと同じ理屈です。死ぬわけではないので確かに絶対不可能ではありませんが、普通の人間なら生理的にムリでしょう(誤解がないように捕捉しておきますが、真性の悪魔と違ってわたしには人間の価値観も残っているので、糞尿を浴びて悦にひたるような感性は持ち合わせていません)。

 わたしは塵に変身して姿を消し、その場から立ち去りました。ホームズたちの驚愕する声がせめてもの慰めでした。

 ステイプルトンは計画の失敗を悟って、グリンペン沼地へと逃げて来ていました。万が一に備えて、錫鉱山に逃走するための準備がしてありました。抜け目のない男とは言いません。もしそうなら、計画は見事成功しているはずでしたから。

 わたしは沼地でステイプルトンに追いつくと、人間の姿へ戻り、彼の襟首を吸血鬼の怪力でつかみ上げました。「なぜ料理にニンニクを入れたのよ! あれほど使うなと言ったのに!」

 怒りで頭が沸騰していたのでつい失念していましたが、ステイプトンは魔犬の正体を知らないのでした。

「何なんだおまえは! いったいどこから現れた!」

「いいから答えなさい! ポーロックから言われていたはずよ! ニンニクは使うなって! 絶対使うなって!」

「アンタもモリアーティの手下か。ちょっと待ってくれ。ポーロックからそんな指示は受けていないぞ」

「何ですって?」

「夕食についてあのオトコ女が言ってたのはこうだ――『あなたの奥さんはコスタリカ出身だそうですね。ぼくも以前コスタリカ料理を食べる機会がありましてね。確かガジョ・ピントって名前でしたっけ。ぜひまた食べてみたいと思っていたんですよ。よかったら今夜の会食で作っていただけませんか。それで余り物をぼくに分けてください』あれは朝飯のメニューらしいんだが、べつにことわる理由もないから妻に作らせたよ。そういえばニンニクが入ってたっけな」

 わたしはわけがわかりませんでした。ポーロックは何を考えていたのでしょうか。そのコスタリカ料理に、ニンニクが入っているのを忘れていたのかもしれません。いえ、だとしてもニンニクについて警告しなかったのは不自然です。

 故意に計画を邪魔した? モリアーティがわたしを裏切って? それともポーロックがモリアーティを裏切った? けれど、どちらにせよいったいなぜ? 今のところハッキリしているのは、ステイプルトンの陰謀が潰えたということだけでした。

「おい、もういいだろ! いいかげん手を放してくれ! 早く逃げないと、ホームズたちに追いつかれちまう!」

 この憐れな悪党をどうしましょうか――わたしは少しばかり迷いました。彼もまた、わたしと同じく裏切られました。わたしの正体を知らなかったとはいえ、共通の目的へと邁進した、いわば同志と言っても過言ではありません。

 とはいえ、べつに助ける義理もありませんし、そもそもこの男のことは最初から虫が好きませんでした。なので底なし沼へ放り込んでやりました。ホームズたちは、ステイプルトンがこの霧で沼地を抜けるルートから外れてしまった、とでも考えるでしょう。

 もうこの地に用はなくなりました。とにもかくにも、モリアーティとポーロックを問い詰めなければ。トランシルヴァニアの土が詰まった箱を回収して、さっさと撤収するとしましょう。そう思ってわたしはひとまず錫鉱山へ戻りました。

 ですが、予想してしかるべきでした。トランシルヴァニアの土の上には、何者かの手で聖餅が置かれ、消毒されていました。これではもはや使い物になりません。朝日が昇ったら最後、トランシルヴァニアへ帰還するまで、わたしは魔術を使えなくなってしまいました。完全にしてやられたというわけです。とはいえ、これでわたしが裏切られたことは確定したと判断していいでしょう。

 夜明けまでは時間があります。魔術が使えなくなる前に、わたしはコウモリへ変身すると、急ぎロンドンへと飛び立ちました。

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