十月十七日

 今日もわたしは、ステイプルトンに鉱山から連れ出され、吠え声を響かせながら、荒野を駆けまわっていました。ポーロックいわく、ダートムーアでは魔犬のうわさで持ち切りだそうです。スコロマンスの魔女としてトランシルヴァニアでおそれられているのとは、何だか少し違った感じがしますね。ちょっと愉快な気分です。

 今夜はサー・ヘンリーが、ステイプルトンのメリピット・ハウスを訪問する約束になっているそうです。当然、魔犬に襲わせるための算段でした。理想はサー・チャールズのように間接的な死を与えることですが、いざとなれば直接噛み殺すことも辞さない決意です。たとえ野犬か何かに襲われたとわかったところで、そこにステイプルトンの関与が立証されなければ、何も問題ありません。

 さて、岩場へ差しかかったとき、わたしの嗅覚がサー・ヘンリーの匂いを嗅ぎつけたのです。標的はすぐに見つかりました。あの独特の赤みがかかったツイードのスーツは、間違いなくサー・ヘンリー・バスカヴィルその人だとわたしは思いました。こちらにとって好都合なことに、護衛をしているはずのワトソン博士もいませんでした。それにしても夜の荒野を一人で出歩くとは、命知らずにもほどがあります。メリピット・ハウスへ向かう道からもだいぶ外れていました。わたしは不思議に思いましたが、このチャンスを逃す手はありません。匂いをたどってサー・ヘンリーを追いかけました。

 背後へ迫ったところでこちらの存在に気づかれ、サー・へンリーは必死に走って逃げました。わたしはつかず離れず追いかけました。

 ふと、暗闇でサー・ヘンリーの姿が消えてしまいました。おどろくまもなく、男の悲鳴が聞こえてきました。岩の稜線が切り立った崖のようになっていたのです。サー・ヘンリーはそこから足を踏みはずし、まっさかさまに転落していました。何かにおびえて逃げ惑ったすえの事故死、まさに理想的なシチュエーションです。住民たちは荒野に響いた魔犬の鳴き声と、断末魔の叫びを耳にしたことでしょう。ようやく仕事を終えられたことに、わたしは歓喜しました。

 けれど、それはぬか喜びでした。

 遠目で見たかぎりでも間違いなく死んでいますが、万が一ということもあります。もしまだ息があったらトドメを刺そうと、生死を確認するためわたしは死体に近づこうとしました。しかし、そこへ何者かが駆けつけてきたのです。わたしはとっさに岩場の影へ隠れました。

 やって来たのは二人組――ワトソン博士と、おどろくべきことにロンドンへ残っているはずのホームズでした。これは面倒なことになってきました。サー・ヘンリーが死んでいるなら問題ありませんが、もし生きていたら、三人まとめて始末しなければなりません。それは非常に苦しい選択です。もしホームズとワトソンを殺してしまったら、新作の伝記が発表されなくなってしまいます。シャーロキアンとしては苦渋の決断ですけれど、いたしかたありません。いざというときに備えて、わたしは覚悟を決めました。

「ケダモノめ! ケダモノめ! ああホームズ、彼を運命の手にゆだねた私自身を許せそうにない!」

「きみよりも責を負うべきなのは僕だ、ワトソン。推理を穴がなく完璧にしようするあまり、依頼人の命を見捨ててしまった。僕のキャリアに起きた最大の打撃だ。しかしわかるはずもない――わかるはずもない――僕のあらゆる警告にもかかわらず、彼が一人で荒野へ出てわが身を危険にさらすとは」

「私たちは彼の叫び声を聞いたというのに――神よ、叫んでいたんだ! それなのに彼を救うことができなかった! 彼を死に追いやった凶暴な猟犬はどこにいる? 今この瞬間も岩のかげに潜んでいるかもしれない。それとステイプルトンめ、ヤツはどこだ? ヤツにこの償いをさせてやる」

 ふたりの会話を聞いたかぎり、どうもステイプルトンはすでに犯人としてマークされているようです。とすると、ケダモノとはもしかして魔犬だけではなく、彼のことをも指しているのかもしれませんね。まあ確かにケダモノのような男ですしね。

 ホームズは魔犬とステイプルトンの関係を立証できないどころか、そもそも魔犬の存在そのものを証明できず、袋小路に陥っているようです。包囲が不完全のまま下手を打てば、ステイプルトンに逃げられてしまうと危惧しているのでした。

 実際、魔犬はこの世に存在しないも同然でした。わたしが人間の姿に戻ってしまえば、この世から消失してしまうわけですから。現代の裁判所にわたしを裁くことなど不可能なのです。

 ですが、そのときでした。突然ホームズが叫び声を上げて死体に屈みこむと、狂ったように小躍りして笑い出しワトソンの手をにぎりしめました。そして告げたのです。「あごひげ! あごひげ! この男にはあごひげがある!」

「あごひげ?」

「そいつは準男爵じゃない――そいつは――おや、僕の隣人、あの囚人じゃないか!」

 彼らは死体をひっくり返しました。ステイプルトンはわたしを犬だと思っているので、サー・ヘンリーの匂いしか憶えさせませんでしたが、あとからポーロックに人相を教わっていました。死体の顔は明らかにサー・ヘンリーではありませんでした。

 そういえばポーロックが脱獄した死刑囚について話していました。なぜホームズが彼を隣人と呼ぶのかは不明ですが、どうも紆余曲折があり、サー・ヘンリーの古着が死刑囚の手にわたったようです。

 ホームズとワトソンの会話から経緯は理解できても、腑に落ちませんでした。いったいなんという偶然でしょうか。これが神の采配だとしたら、死すべき者は死から逃れられないということですね。

 では、サー・ヘンリー・バスカヴィルは? 彼は死すべき運命にはないのでしょうか?

 ドラキュラ伯爵が死んだのも運命?

 ふとわたしはわれに返りました。わたしはこんなところで、いったい何をやっているのでしょう。わたしは伯爵の仇討ちが目的だったはずです。だというのに何ひとつ成果が得られないまま、トランシルヴァニアを出てから半年以上も経ってしまいました。そのあいだわたしが何をしていたかと言えば、自分には無関係な相手を殺そうと躍起になっていたのです。長く生きたせいか、わたしの時間間隔はかなりルーズだと自覚していますが、それでも半年という期間がけっして短くないということくらいは理解できます。ちゃんと憶えています。調査結果を気長に待つつもりではいましたが、それはあくまで少しずつでも進展があることを期待してのことです。

 モリアーティ教授は本当にわたしとの約束を守る気があるのでしょうか。本気で伯爵のカタキを捜してくれているのでしょうか。にわかに疑わしくなってきました。ひょっとしたらアマーリアが手紙に書いていたとおり、都合よく利用されているだけなのかもしれません。上手く口車に載せられた気がしてなりません。

 ここまでやってきたからには、最後までステイプルトンのたくらみには付き合います。決着はそう遠くないでしょう。そしてこの件にカタがついた暁には、モリアーティを問い詰めるつもりです。返答によっては容赦しないでしょう。

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