イロナ・コルヴァンの日記
五月十三日
ロンドンへ戻ってきたわたしに、モリアーティ教授からホテルの一室があてがわれました。なんと彼と最初に対面した、あのリッツのスイートルームです。スコロマンスの生徒全員で宿泊しても、十分余裕そうな広さがあります。調度品もすべてが最高級のものでそろえられていて、まるでお姫様にでもなった気分でした。いえ、まあ実際、わたしはトランシルヴァニアの王女だったのですけれど。
けれど、錫鉱山で鎖につながれたまま一ヶ月近く過ごしていたせいなのか、わたしはどうにも落ち着きませんでした。日記を書こうとしているのに、なかなか集中できなくて筆が進まないのです。文句なしに快適なはずなのに、いえ、快適だからこそなのかもしれません。どうやらわたしはすっかり毒されてしまったようです。
いっそオオカミに変身しようかと思いましたが、それでは日記が書けないので本末転倒です。ならば少しでもあのときの状況を再現してみようと、わたしは衣服を脱ぎ捨て、獣のごとく裸になってみました。それから四つん這いになり、床で日記を広げてみると、不思議なことにスラスラ筆が進み出したのでした。「すごい。すごいわ。はかどるはかどる。まるでペンが勝手に走っているみたいだわ」
「イロナ・コルヴァン……そんな格好で、何をしているんだい?」
その声にハッとして振り返ると、ポーロックが冷めたまなざしでわたしを見下ろしていました。
「なに勝手に入ってきているの! ノックぐらいしなさい!」
「いや、ノックならしたさ。何度もね。でも返事がなかったから。カギも開いてたし。で、何をしていたんだい?」
わたしはこの状況をごまかせる言い訳を、必死で考えました。しかし何ひとつ思いつかなかったので、さも何事もなかったかのような態度を取ることにしました。
「べつに。日記を書いていただけよ。それが何か?」
「トランシルヴァニアでは床では四つん這いになって、全裸で日記を書くのが普通なのかい?」
「ああ、もう! 全裸全裸うるさいわね! おまえも全裸にしてやりましょうか! むしろさっさと脱ぎなさい!」
わたしは吸血鬼の怪力にまかせてポーロックの衣服を引き裂き、生まれたままの姿にしてやりました。それから彼女を四つん這いにさせて、わたしは背中に腰かけました。座り心地のいいイスです。
「英語で日記を書いていたのよ。トランシルヴァニアを出るちょっと前から、英語の勉強を兼ねて」
「へえ、そうなんだ。よかったら読ませてもらってもいい? ちゃんとした英語で書けているか確認してあげるよ」
べつに見られて恥ずかしいことは記されていないので、せっかくの機会ですし、見てもらうことにしました。
「うん。文法的には問題ないかな。ただ、ところどころ知らない単語が出てくるね。wampyrが吸血鬼なのは何となく理解できるけど」
どうやら無意識のうちに、うっかりハンガリー語やルーマニア語、ドイツ語の単語が混ざっていたようです。そういえばホームズにも、訛りでトランシルヴァニアの人間だと見抜かれたのでした。
wampyrのほかには、以下のような単語を使っていました。
stregoica:魔女
ordog:悪魔
pokol:地獄
ismeju:竜
paripa:駿馬
Vasorru baba:鉄鼻の老婆
doina:哀歌
ちょうどよい機会なので、わたしはポーロックに昔話を語って聞かせました。四百年前、わたしがいかにして竜からアニチカを取り戻し、悪魔を地獄へ退散させたか、手に汗握る武勇伝を。
聞き終えたポーロックはしきりに首をかしげました。「あのさ、なんで竜が馬に乗っているんだい?」
「そんなの当たり前でしょう。馬に乗ったほうが早いもの」
「でも、竜は竜で悪魔を乗せて飛ぶんだろう? それだと馬が馬に乗るようなものじゃないか。」
「駆けるのと飛ぶのとはまったく話が違うわ。それに悪魔は竜の力を借りないと、嵐を起こせないし」
「どうして五本脚の馬より六本脚の馬のほうが速いんだ?」
「二本脚の人間より四本脚の獣のほうが速いのだから、脚が多いほうが速いに決まっているじゃない」
「ガチョウの足の上で回転する城ってイメージが湧かないんだけど」
「そう? ガチョウの足の上で城が回転しているだけよ」
わたしは懇切丁寧に解説してあげたのですが、結局ポーロックは納得していなかったようです。きっと文化の違いというやつでしょうね。
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