ワトソン博士の手記

五月十日

 一ヶ月前に世間を騒がせた切り裂きジャックの模倣犯が、ふたたびロンドンの夜へと現れた。三夜連続で娼婦が殺されたのだ。各紙は扇情的にこの話題を書き立てている。嘆かわしいことに、タイムズまでも低俗なゴシップ紙になってしまったかのようだ。

 とはいえ、これが重大な事件であることは確かだ。本物の切り裂きジャックがおこなったとされる犯行を、わずか短期間のうちに数の上では上回っているのだ。スコットランドヤードも血眼になって犯人のゆくえを追っているようだ。しかし、いまだ何の手がかりつかめていないらしい。今朝、疲れ切った様子のレストレード警部が訪ねてきた。ホームズに捜査の助力を頼むためだ。

 だがあろうことか、ホームズはこの依頼をことわってしまった。

「残念だが、僕の出る幕じゃないね。この事件の犯人は単なる通り魔だ。必要なのは名探偵一人の推理ではなく、圧倒的な数に頼った人海戦術だろう。ロンドン市民を一人残らず聞き込みしてまわれば、一人くらい目撃者が見つかるかもしれない。警官隊による大規模な夜間警戒を続けていれば、いずれは現行犯に出くわすだろうさ」

 つれない態度のホームズを何とか心変わりさせようと、レストレードも必死で食い下がったが、最後にはあきらめて帰って行った。

「ホームズ、本当にあれでよかったのか?」

「しかたがない。現時点で僕が役に立てそうな余地は皆無だ。犯罪というものは単純であればあるほど、逆に解き明かすのがむずかしくなる。ただ霧の深い夜に娼婦を殺して逃げた犯人の正体を、どうやって推理しろと言うんだい?」

 理屈はわかるが、私はホームズのそういう達観した考え方が以前から気に入らなかった。彼は基本的に法の番人として振る舞うが、その一方で、おのれの頭脳が必要とされない単純な事件を軽視しがちだ。むろん、娼婦が何人死んでもかまわないと思っているわけではないだろうが、その態度では結局思っているも同然なのだ。とはいえ、そのことを指摘したところで彼は方針を変えはしないだろうし、むやみに彼を傷つけてしまうだけになるとわかっているから、私はあえて口に出しはしなかった。

 それに、ホームズが退屈のあまりコカインに耽溺していたならば私もだまっていなかっただろうが、現在はいくつか依頼を抱えている。バチカンのカメオに関する事件や、ドラキュラ伯爵の事件もそのひとつだ。実を言うと依頼人のイロナ・コルヴァンからは、どういうわけか依頼を取り下げる電報が届いていた。ちょうどセワード医師がモラン大佐に襲われた日のことだ。しかしホームズはすでに伯爵をめぐる謎の虜となっていたので、今さら引き下がる気はない。

 ヴァン・ヘルシング教授宛てに送った電報は、アムステルダム大学の職員から代わりに返答があった。教授は鯨の生態調査に太平洋へ出かけていて不在だそうだ。専門に囚われないのは結構だが、いいかげん歳なのだからおとなしくしていてほしかった。

 ほかに手がかりもないので、ゴダルミング卿の交友関係をさらに調べた結果、ハーカー夫妻が浮上してきた。夫人がもともとルーシー・ウェステンラと親友だったらしい。

 しかも夫人の名はなんと、ミナだ。おそらく彼女こそ、伯爵の手紙に書かれていたもうひとりの女性と見て間違いない。ならば四年前の件についても、何かしら知っているはずだ。

 本来ならば、ハーカー夫妻を直接訪ねたいところなのだろうが、最近のホームズは多忙をきわめている。デヴォンシャーのエクセターはさすがに遠すぎる。それにローマ法王よりも偽修道女の依頼を優先させるわけにもいかなかった。

 そこでひとまず手紙を送ることになり、いそがしいホームズの代わり私がしたためた。色よい返事がもらえるといいのだが。

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