三月三十一日

 わたしは今ロンドンを目指して、オリエント急行に乗っています。船だとヴァルナを出て、黒海から地中海を経由し、ロンドンまで三週間はかかります。それが機関車ならたったの三日だというからおどろきです。しかも船と違って、あまり天候に左右されませんし。海が凪いでも魔術で水の流れを操れるから、船旅でも通常よりは早く着けるでしょうけれど、それでも機関車とは比較になりません。

 伯爵が海路を選ばざるえなかったのは、五十箱もの荷物を運ぶためでした。箱にはトランシルヴァニアの土が詰まっていました。本来、スコロマンスの魔術は術者に縁のある土地――ようするにトランシルヴァニアでしか使えません。ですがトランシルヴァニアの土の上で寝さえすれば、ほぼ十全に力を発揮できます。

 わたしも可能なかぎり、ロンドンへ土を持ち込みたいところでした。とはいえ、伯爵はロンドンで箱のほとんどをされ、敗走せざるをえなくなったそうです。もしわたしも同じように大量の箱を運べば、敵にこちらの動きを感づかれるかもしれません。まだ敵の素性はわかっていませんし、わたしの存在に引きずり出されてくれれば望むところですけれど、かと言って向こうに先手を打たれるのは避けるべきでしょう。なので可能なかぎり目立たないよう、持っていくのは棺桶ひとつ分だけ。さすがに客車には持ち込めなかったけれど、貨物室に問題なく収まりました。それでも若い女の一人旅は目立ちますし、荷物が棺桶というのはかなり怪しいかもしれないので、念には念を入れて修道女の扮装をしてみました。ただし十字架は着けられませんけれど。病死した修道女仲間を故郷へ還すという設定で、これはアマーリアの発案でした。実際、人々から駅で浴びる視線は、同情的だったように感じられました。

「にしても、われながらstregoicaが修道女を騙るとは世も末よね」

「まあ実際、世紀末ですしね。いよいよ二十世紀が目前です」

 見送りには、アマーリア一人だけブカレストまでついてきました。本当は生徒全員ついて来ようとしていたのですけれど、それはさすがに恥ずかしいので、一人が代表ということで落ち着きました。

 アマーリアをふくめ生徒たちは、思っていた以上に不器用でしたが、ここ二ヶ月近くの特訓で、それなりに料理できるようになりました。留守中の食事は心配しなくてもよさそうです。

「何か忘れ物はありませんか? あ、ハンカチは持ちましたよね? 知らないひとについていったらダメですよ」

「もう、アマーリアったら心配しすぎよ。子供じゃないんだから」

「そうでしょうか。イロナ様はわりと、いえ、かなり世間知らずなところがありますから。トランシルヴァニアはもうハンガリー王国ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国なんですよ」

「あのねえ、さすがにそのくらいは知っているから」

「そうですか。ところでよくよく考えてみたら……ひょっとしてイロナ様、トランシルヴァニアの外へ出るのは生まれて初めてでは?」

「……ああ、言われてみればそうだったかもしれないわね」

 地下世界にある竜の国へ行ったことはありますが、あれを数えてよいのかは微妙なところです。

「やっぱり、わたくしもお供したほうが……」

「ねえ、あそこにいる女の子を見て。とてもかわいらしいわ」

「マジメに聞いてください」

「だから大丈夫だって。ほら、もう発車時刻だから」

「……もしこのアマーリアの力が必要だと思ったら、いつでもロンドンへ呼びつけてくださいね。約束ですよ」

「ハイハイ。とにかく留守はまかせたわよ。できれば聖ジョージの日前夜までには帰って来たいけれど、もし間に合わなかったらよろしくね。それから、わたしがいないからって魔術の修行をなまけないように。それじゃあ行ってくるわ」

 いいかげんわたしは列車へ乗り込もうとしたのですが、アマーリアに袖をつかまれて引き留められました。

「あ、ちょっと待ってください」

「なに? まだ何かあるの?」

「大事なことを忘れるところでした。餞別があるんです」

 そう言ってアマーリアが渡してきたのは、一冊の英文学だった。作者はジョン・H・ワトソン、タイトルは『緋色の研究』だ。

「英国のベストセラー小説だそうです。退屈になったらどうぞ」

「ヘンテコなタイトルね。本当におもしろいのかしら。まあでも、ありがとう。気が向いたら読んでみるわ」

 わたしは今度こそ列車へ乗り込み、自分の客室へ移動すると、車窓から顔を出してアマーリアに手を振りました。アマーリアも駅のホームから、列車が離れて完全に姿が見えなくなるまで、ずっとこちらへ手を振り続けていました。

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