イロナ・コルヴァンの日記

一八八九年二月二十六日

 今日から英語の練習を兼ねて、英語で日記を書いてみようと思います。わたしはドラキュラ伯爵のように、訛りで田舎者と思われたくないだなんて、そこまで神経質というわけではありません。しかしトランシルヴァニア公の父、ハンガリー王にしてボヘミア王の兄、そしてトランシルヴァニア公の夫を持つ身としては、控えめなほうには違いないとしても、最低限の矜持はあると自負しています。もっとも、ordogから動物の言葉を仕込まれたわたしにとってみれば、西欧のを覚えるくらい、どうということはないのですけれど。

 さて、なぜわたしがわざわざ英語で日記を書くことになったかというと、発端はドラキュラ伯爵が殺されたことでした。

 ヘルマンシュタット湖のほとりにある地下洞窟に、かつての悪魔の城があります。それがスコロマンスです。わたしはここのあるじとして、定期的に少女をさらってきては魔術の薫陶を授けてきました。そんな生活が、かれこれ四百年以上続いています。

 伯爵から最後の手紙を受け取ったころ、ちょうどスコロマンスに新たな生徒たち十名を受け入れたばかりで、日々のあれやこれやにすっかり忙殺され、ふと気がつくと、便りが絶えて三年以上が経っていました。これはさすがにおかしいと思って、ドラキュラ城に遣いを出してみたのです。あそこには留守居役の三人娘がいるから、話を聞けば何かわかるだろうと考えました。三人ともわたしの元生徒で、ジュジとエルジは黒髪に浅黒い肌のエキゾチックな双子で、ユリシュカは波打つような金髪にサファイアの瞳の美女でした。

 けれど遣いがドラキュラ城で見たものは、三つの棺桶にそれぞれ積みあがった灰の山――合わせて人間三人分の体重に匹敵する量でした。なんと、三人は何者かの手で殺されていたのです。

 いよいよおかしいと、わたしは事情を知っていそうなティガニー人を捜させました。ティガニー人とはこの地域に特有のジプシーで、彼ら独特のロマニー語を話します。そして彼らは、伯爵の忠実なしもべでもありました。事実、伯爵がロンドンへ移動する際も、やはり彼らの手を借りていたように記憶しています。

 さて、スコロマンスまで連れて来られたティガニー人の女は、ひどくおびえていました。いったい何があったのかとわたしが尋ねると、彼女はしどろもどろになりながら答えました。

「伯爵サマ、死んだデス。殺された、デス。ライミー」

 話によれば、伯爵は数名の英国人たちによってロンドンから追い払われ、トランシルヴァニアへ命からがら逃げ帰ってきたところ、追撃を受けて殺されたというではありませんか。しかも敵はわずか数名だったというのです。わたしは開いた口がふさがりませんでした。いくら日中に襲われたからといって、にわかには信じられません。かつて十倍以上の劣勢をくつがえし、トルコの大軍を蹴散らしたドラキュラ伯爵が、たかが数名に敗れ去っただなんて。そのうち一名は、もしかして手紙にあったヘルシングという男でしょうか。

 ティガニー人たちは、あるじを守れなかったことがわたしに知られれば、一族郎党始末されてしまうと逃げまわっていたそうです。どうにも夫がああいうタチなので、どうやらわたしまで誤解されているようですけれど、わたしは伯爵と違って誰彼かまわず串刺したりしません。そういえば昔、悪臭が耐えられないとバカ正直に告げた家臣が、臭いが気にならないよう誰より高い位置で串刺しにされたことがありました。あと、自国の作法だと言って帽子を脱がなかったら、帽子を釘で打ちつけられたオスマン帝国の使者がいました。あらためて考えてみると、伯爵は本当に残酷な男でした。さすがはかのアッティラ大王の末裔なだけはあります。

 まあそれはそれとして、ティガニー人の女は限界ギリギリまで血を吸ってやったのですけれど。ちょうどノドが渇いていましたし。

 そして、わたしは何事もなかったかのように、いつもどおり魔術の授業をこなしました。それが終わったら、生徒たちの食事を作ります。その日のメニューはポガーチャとインプレタタでした。ポガーチャは小麦粉にラードなどを練り込んで丸型のパン状に焼いたもので、インプレタタは味のついた挽肉を詰めたナス料理です。これらは生徒たちの分だけで、わたしは料理にいっさい口をつけません。わたしは生徒たちが食べる姿を眺めるだけ。

 伯爵の調合した万能薬で死という病を克服し、死せる不死者デッド・アンデッドとなったわたしの肉体は、食糧を必要としなくなりました。べつに食べようと思えば食べられないこともないけれど、まったく味を感じられないし、ほとんど未消化のまま出てきてしまうのです。

 ただし、wampyrに寿命は存在しないものの、伯爵の万能薬が不完全な代物だったせいか、放っておくと徐々に肉体が老いてしまいます。それを防ぐには、血を飲まなければなりません。その代わり血を介して生命力を摂取しさえすれば、またすぐに若返ることができ、さらには人間離れした身体能力を発揮できます。

 生徒たちが食事を済ませたら、一日の終わりにヘルマンシュタット湖でみないっしょに沐浴をして、垢と汚れを落とすのが日課です。湖から上がったら、肌を保湿するため香油を塗ります。ひとりで塗るのはむずかしいので、みんなでおたがいに塗り合います。手だけではなく全身を使って、隅から隅までまんべんなく。また、この香油には少しばかり効果があります。

 そのあと生徒たちは基本的に寝るだけです。ただし一名を除いて。生徒たちは一名ずつ毎夜持ちまわりで、わたしの夜伽をすることになっています。血を少しばかり飲ませてもらう代わり、痛みがないよう気持ちよくしてあげます。香油の媚薬効果も抜群です。

 その夜の相手はアマーリアでした。アマーリアは生徒のなかでは一番年長で、しっかりしている娘です。ただしベッドの上ではガマン利かず、毎回幼い子供のようにおねだりしてきます。

 彼女は三回目の絶頂を迎えたあと、ふいに尋ねてきました。

「イロナ様、伯爵の仇討ちなさらなくてもよろしいのですか?」

「……やっぱり、仇討ちってしたほうがいいのかしら?」

「いえ、いいとか悪いとかではなく、仇討ちしたくないのですか?」

「正直よくわからないわ。夫と言っても、しょせんは政略結婚だし」

 ハンガリー王であるお兄様――マーチャーシュがルーマニア系という事実は、それだけで一部の貴族たちに不満をいだかせる要因でした。ゆえにハンガリー人なかのハンガリー人といわれるセーケイ人、その有力貴族たるドラキュラ一族と姻戚関係を結ぶことは、ハンガリー王国を統治する上で好都合だったと言えるでしょう。

 わたしを政治の道具とするのにお兄様も負い目があったのか、あくまで婚姻は形だけのものに過ぎませんでした。現にわたしは、伯爵と初夜をともにさえしていません。実はいまだに処女なのです。そもそもわたしはスコロマンスを離れなかったわけですけれど、たとえドラキュラ城へ移ったところで、彼はオスマン帝国との戦いでほとんど不在だったそうだから、どちらにせよ同じことでした。

「まあ彼のことは一応尊敬していたし、友情のようなものも感じてはいたけれど、愛していたかと訊かれれば……実際、死んだと知っても涙ひとつ出なかったし」

「でしたら、なぜそのような顔を?」

 その指摘に、わたしは虚を突かれた。「顔?」

 アマーリアはわたしのこわばった眉間を指でほぐして、「吸血鬼が鏡に映らないというのも困りものですね」

 わたしはまだ、伯爵に四百年前の借りを返せていません。彼を裏切った弟の首を贈ったり、スコロマンスの魔術を教えてあげたりしたけれど、それだけではまだ不十分だと感じていました。恩返しするなら、おそらくこれが最後の機会になるでしょうね。

「だけど、わたしがスコロマンスを留守にするわけには」

「ご心配なく。イロナ様が不在のあいだ、このアマーリアが責任をもって留守を預かります。ほかの皆もいますし。おまかせください」

「でも、おまえもほかの娘たちも、まともに料理もできないじゃない。わたしがいないあいだの食事はいったいどうするの?」

 アマーリアは言葉を詰まらせました。まったく、しょうがない子だこと。だからこそかわいいのですけれど。

 そういうわけで、わたしはロンドン行きの準備と英語の勉強の合間に、生徒たちに最低限の料理を仕込むことになったのでした。

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