第4話 退鬼師と元人間
「――て」
「んん……」
遠くの方から、誰かが呼んでいる気がした。
しかし、心地良い眠りに抗う気力はなく、声の主から少しでも離れようと寝返りを打つ。
「あとちょっと……」
「今すぐ起きて」
今度は先ほどよりもはっきりと聞こえる。さらに、肩を揺すってきた。どうやら、このまま寝かせてはくれないらしい。
やや苛立ちを孕んだ少年の声に、桜は近しい子供の顔を思い浮かべて寝惚けながら言った。
「ううん……。分かったって、
また体を反転させ、声の主に向いて目を薄らと開ける。
だが、視界に飛び込んできた顔は思い浮かべていたものとは異なり、桜は漸く、今何処にいるかを思い出した。
固まる桜に、声の主――柊矢は不機嫌さを隠さずに訊ねる。
「誰? 尚って」
「う、わああぁぁ!?」
「いった!?」
すぐ近くにあった顔を、容赦なく引っ叩いてしまったのはもはや条件反射だ。
桜は、じんじんと痛む手を反対の手で握ったところでやっと正気に戻った。そして、激しく後悔した。
叩かれた頬を押さえる柊矢が、不機嫌を通り越して怒りのオーラを放っている。
「隊長や一華さんに言われたからしょうがなく起こしてあげたって言うのに……。もう二度と起こしてあげないから」
「ごごごご、ごめんなさいいいい……!」
ふい、と顔を背けた柊矢は、部屋に備え付けの洗面所へと歩いていった。恐らく、叩かれた箇所を冷やすのだろう。
その背に謝るも、彼は振り向かずに扉を閉めた。
部屋に一人になった桜は、朝からしでかしてしまった、と溜め息を吐いたところで我に返る。
「……そもそも、近すぎない?」
施設の子供達は家族同然に育っているため、距離が近くとも焦りや緊張などは生まれない。だが、柊矢は昨日会ったばかりの青年だ。
いくら、昨日、部屋に案内された直後に「安心して。色気の欠片もない子供に手を出すほど飢えてないから」と言われたとはいえ、触れそうなほど近くにいれば防衛本能も働く。
(まぁ、起きなかった私も悪いけど……)
言われた時間に起きていれば、こうなることはなかったのだ。
再び溜め息を吐いた桜は、改めて室内を見渡す。昨日は緊張したままでよく見ていなかったが、意外と広いことに気づいた。
寮の部屋は二人用の作りだ。まず、部屋に入ると短い廊下があり、その途中で左手側に洗面所の扉がある。洗面所の奥に風呂とトイレもあるため、昨日は部屋に入ってからは一歩も外に出ていない。柊矢は事後処理があるから、と暫く部屋を出ていたが。
廊下の先には広い空間があり、右側の壁に二段ベッド、反対の壁際に一台のテレビと、それを挟むように机と本棚、クローゼットが二人分置かれている。柊矢曰く、他の家具については、必要となれば個人で買い足すとのことだ。
「早く着替えなよ。ご飯行くから」
「……分かりました」
戻ってきた柊矢は、思ったよりも怒りを治めていた。もしかすると、彼は彼で反省していたのかもしれない。
まだ少し赤い頬を見て、また罪悪感が生まれた。だが、謝るよりも先に準備をしたほうがいいと判断して、桜は用意されていた退鬼師の制服を取って洗面所へと入った。
顔を洗おうと洗面台の前に立った桜は、鏡に映る自分の姿に溜め息が零れた。
「見慣れない……」
昨日も見たが、変色した髪と目の色にはまだ馴染めない。柊矢にも言われていたが、いざ、鏡で見ると自分が「人」ではなく「神威」という、人ならざる者に変わったのだと実感させられた。
鎖骨の下に浮かぶ、桃の花の紋章にそっと触れる。
(けど、こうしないと、私は死んでた)
強硬手段ではあるものの、神威になることで桜の命は繋ぎ止められた。今さらではあるが、柊矢は命の恩人でもあるのだ。
これからは、少しずつでも彼に恩を返していこう。
そう決意を新たにして、桜は手早く準備を進めた。
「――すごく初歩的な質問をしてもいいですか?」
「手短にね」
準備を終え、食堂に向かうために部屋を出た桜は、前を歩く柊矢に訊ねた。
彼は振り向いたり歩調を緩める気配はないものの、耳は傾けてくれるようだ。
「その、あんまりお腹が空いたっていう感覚がないんですけど、神威も食事は必要なんですか?」
昨日は鬼の出現で逃げ惑い、黎明に来てからも本館や寮を行き来している。さらに、晩ご飯を口にしていない。
余程のことがない限り、一日三食を欠かしたことのない桜にとって、未だに空腹感がないのは不思議だった。
柊矢は前を見たまま答えた。
「神威になったとはいえ、霊力の元になるエネルギーの摂取は必要だよ。だから、元人間、元動物の場合は、今までと同じように食事もする。ただ、必要とする量が違う」
「必要とする量、ですか?」
「そう。どれだけ霊力を消費したかによって、それは変わってくる」
霊力を消費すれば消費するほど、エネルギーを補給しなければならない。つまり、霊力を消費していなければ、補給のための食事は不必要となる。
ただし、自然界の物質は、保有する霊力を消費しても補給はほとんどの場合においてできない。そのため、新しい物と交換するのだ。
なるほど、と納得した桜に、柊矢は漸く足を止めて振り向いた。
「昨日は神威として戦ったとはいえ、ほとんど霊力を消費していないんだろう? お腹が空いていないのはそういうこと」
「戦った……んですよね? 私」
神威となり、柊矢の持っていた野太刀に宿って戦っている。実感はないが。また、霊力を感じたことがないため、減っているかどうかも不明だ。
すると、柊矢は再び前を向いて呟く。
「俺の霊力を乗せたのもあるけど……」
「『けど』?」
「……面倒になったからもういい」
「ここで!?」
何かを言い掛けていたものの、桜の顔を一瞥すると口を閉ざしてしまった。しかも、また歩き出した歩調は速い。
中途半端ではあるが、空腹ではない理由が分かったのでよしとしておこう、と桜は少し先に行ってしまった柊矢を追う。
柊矢が内心で付け足した言葉は、当然ながら桜に届くことはなかった。
(保有している霊力が異常なほど大きいとか、他にも理由はあるけど、霊力については検査で分かるだろうし……まぁ、いっか)
憶測で言って下手に期待と自信を持たせるのも、後々が面倒になるかもしれない。神威になれた時点で、保有する霊力が大きいという可能性は高いのだが。
見えてきた食堂に踏み入った柊矢は、数人の退鬼師が向けてきた視線に目を合わせることなく、慣れた足取りで食事を受け取る列に並ぶ。
だが、柊矢に続いて桜が食堂に入った瞬間、賑やかだった場が静まった。
柊矢のときと違い、全員の視線が桜に向けられている。中にはすぐに逸らす者もいたが、ほとんどの者が好奇に満ちた眼差しをしていた。
「あの子が……?」
「弱そー」
「おい、砂羽さんに聞こえるぞ」
生き物の神威は珍しい。それは聞いているが、いざ、好奇の視線を一身に受けると居心地の悪さを覚える。
柊矢は気にした様子もなく、咎める素振りもない。
先を行く彼に置いて行かれまいと、桜は慌てて彼の側に駆け寄った。
朝食を摂る気はなかったため、飲み物だけを貰って柊矢の隣の席に座る。
「……あの、柊矢さん」
「…………」
「柊矢さんは、気にならないんですか?」
本人に聞くのもおかしな話だが、今の桜には視線からの逃げ場が彼しかいない。昨日、知り合った明日葉や珊瑚がいればまた違ったかもしれないが。
しかし、当の本人は黙って湯気の立つ味噌汁を飲むだけで、答える気配はない。
(珊瑚ちゃん達がいたら良かったのに……)
ここまで無視を貫かれると泣きたくなってくる。
気を紛らわせようとオレンジジュースを口にするが、緊張のせいか味がしない。
そのとき、ぽん、と桜の肩を誰かが軽く叩いて声を掛けてきた。
「ねぇ、お姉さん」
「は、はいっ!」
少年とも少女とも取れる声に振り向く。もしかすると、何か粗相をしでかしていたのかもしれない、と思いながら。
振り返った先には、息を呑むほどの美少女が笑顔を浮かべていた。ハーフかクオーターなのか、日本人離れした顔立ちだ。
背中の中頃まである金髪は少し癖がかかっており、サイドで緩く結んでいる。アクアマリンのように透き通った瞳は人懐っこそうだ。
「ここ、座っていい?」
彼女は片手に食事の乗ったトレーを持っており、反対の手で桜の隣の席を指している。
桜の隣には勿論、八人が座れるテーブルには柊矢と桜以外に誰もいない。最初は何人か座っていたのだが、柊矢を見るなり早々に食事をかき込んで席を立ったのだ。
柊矢の許可を取るか迷ったが、隣になるのは桜なので判断は自分でしていいだろう。
「どっ、どうぞ」
「ありがとう」
了承した瞬間、柊矢からピリリとした空気が伝わってきたが、気のせいということにしてイスを引いてやる。
礼を言って座った彼女は、桜を気にせずに食事を始めるのかと思いきや、さらに会話を続けてきた。
「お姉さん、初めて見る顔だけど……お名前は?」
「瑞樹桜です」
「桜ちゃん! 可愛い名前ー」
「あ、ありがとうございます。あの、あなたは……?」
今は亡き両親がつけてくれた名前だ。褒められれば素直に嬉しい。
緊張から詰まりながらも礼を言い、彼女の名前を訊く。
「僕は『
「十六歳!? すごい……。もう退鬼師になれたなんて、頑張ったんですね」
「ありがとう。でも、残念ながら、最年少ではないんだけどね」
退鬼師になる年齢は、大体が二十歳前後だ。中には二十代半ばを過ぎてからなる人もいる。十六歳は候補生には多いが、正式な退鬼師としては数少ない。
よほど優秀なのだなと感心するも、リオンは困ったように微笑んで柊矢を見た。
もしかすると、何か失礼なことを言ってしまい、桜の主である柊矢に助けを求めたのか。
一瞬、不安に陥った桜だったが、リオン本人は気にしていないかのように話を続ける。
「あと、敬語とかいいから、気軽に『リオン』って呼んで? それで、僕も『桜』って呼んでいい?」
「うん。よろしくね、リオンちゃん」
「こちらこそー」
本部の職員や他の退鬼師からは避けられたり遠目に見られたりしていたが、リオンのように気さくに接してくれる人もいるようだ。明日葉は神威が猫の珊瑚なので、生き物の神威に慣れているだけだと思っていた。
「いただきます」と律儀に手を合わせてからご飯を食べるリオンを見て、桜は安心から肩を撫で下ろした。
「良かった。色々不安だったけど、リオンちゃんみたいに可愛くて良い子に会えて」
「…………」
素直に褒めたつもりだったが、何故かリオンの箸が止まった。
そして、リオンは桜の顔を覗き込むように見ると、妖艶に笑んで見せた。
「うん。『俺』も、桜ちゃんみたいに可愛い人に会えて良かった」
「……へっ?」
突然の変化に頭がついていかなかった。
今まで、リオンは自分のことを「僕」と言っていたが、「俺」と言ったリオンの声色はそれまでよりやや低くなり、少女の雰囲気ではなくなったからだ。
すると、反対側で食事を終えた柊矢が呆れたように言った。
「猫被りもいい加減にしなよ。マセガキ」
「うっわ。なんで朝からそんなに不機嫌マックスなの? ……あ。女の子と同室で緊張して寝られなかった?」
「飢えた馬鹿じゃあるまいし、神威に手を出そうなんて思わないでしょ。めんどくさい」
「ひっどーい! いくら神威でも、ちゃんと女の子なのに!」
その台詞を言うべきなのは桜なのかもしれないが、内容が内容な上にリオンの変化に戸惑いが先立って何も言えない。
唖然とする桜を救ったのは、艶やかな女性の声だった。
『おやおや。朝っぱらから何を騒いでおるのじゃ』
「珊瑚ちゃん」
テーブルに身軽に飛び乗ったのは、思い浮かべていた珊瑚だ。
一見すると衛生的な問題を問われそうだが、誰も咎めないので神威は別なのかもしれない。さすがに桜は乗れないが。
桜の前に座った珊瑚は、笑うかのように目を細めた。
『ここだけ空気が殺伐としておったからのぅ。可愛い後輩も困っておるとなれば、先達が出るが常識じゃろう?』
「すっかり先輩風吹かせやがって……」
少し遅れてやって来たのは明日葉だ。彼は珊瑚がいるせいか、渋々、リオンの前に座った。
桜としては周囲の視線がかなり和らいだので助かったが、リオンの変化の謎については未だ解消されていない。
だが、気づいてくれた明日葉が難しい顔をしたまま説明してくれた。
「それ、一応、男だからな」
「えっ」
「一応って何? 歴とした男の子ですぅー」
歴とした、と言ってはいるが、最初は少女のような素振りをしていた。さらに、制服は桜と同じスカートだ。スパッツではなく、タイツを履いているが。
つまり、彼は自分の可愛らしい容姿を有効活用しているだけなのだろう。
明日葉の言い方に口を尖らせたリオンは、珊瑚に「酷い主だねー」と愚痴を零している。
すると、そこにまたしても新しい人物がやって来た。
「柊矢」
「あ! 一華姐さん、おはようございまーす」
「おはよう。仲良くするのは嬉しいが、周りのことも考えてやるように」
「はーい」
近寄ってきたのは一華だ。昨日見たマントは外しているが、片手に黒いバインダーを持っている辺り、仕事は既に始めているようだった。
一華はリオンと柊矢のやり取りに肝を冷やす周りに気づいており、軽く注意をしてから本題に入る。
「柊矢。桜のことだが、彼女は候補生になる予定だったとはいえ、一般人だったんだ。鬼との戦闘のいろはを教えてやるように」
「えっ。めんど、った」
「返事は『はい』か『了解』以外受け付けない」
「……はーい」
いくら退鬼具に宿る神威とはいえ、戦闘方法を知っておいて損はない。
桜は緩みかけていた気持ちを引き締め、去ろうとした一華に「ありがとうございます」と礼を言った。
口元に笑みを浮かべてそれに答えた一華は、そのまま何も言わずに踵を返した。
「はぁ……」
「よ、よろしくお願いします」
「……言われたからには仕方ないか」
さすがの柊矢も、上司の命令には背けないようだ。
また溜め息を吐いた柊矢は、何も言わずに席を立つ。もしかすると、早速、戦闘について教えてくれるのかもしれない。
桜も席を立って飲んでいたコップを手に取る。そして、振り返って一歩踏み出した瞬間、後ろを通ろうとしていた退鬼師の青年とぶつかった。
「いたっ!」
「うわっ!?」
「ご、ごめんなさいっ!」
軽く肩がぶつかった程度だが、突然のことだったためお互いに自然と声が出た。
桜は慌てて謝るも、相手は視線を合わせることもせず、小さく「こちらこそ」と言うだけでそそくさと立ち去った。
様子を見ていた珊瑚が、ぴしりと尾でテーブルを叩いた。リオンも嫌悪感を露わに言った。
「何あれ? 感じ悪ーい。あとで一華姐さんにチクっておこっと」
「あはは……。私も不注意だったから仕方ないよ。大丈夫」
『まあ、わざとではなかったがのぅ……』
周りの確認不足だった桜にも非はある。わざわざ報告するまでもない。
ぶつかる瞬間を見ていた珊瑚も、相手に害意がないことは分かっている。
「ありがとう。それじゃ、頑張ってくるね」
「何かあったらすぐに言ってねー。僕も珊瑚達も、今日はほとんど本部にいると思うから」
「うん」
手を振ってくれたリオンに振り返し、桜はコップを返却口に持って行く。
柊矢は食堂を出ようとしており、危うく見失うところだった。
「柊矢さん」
「なに?」
「何処に行くんですか?」
「先に私用を済ませてくるから、本部内にいて」
内容を言わない辺り、詮索はしないほうがいいだろう。したとしても、教えてはくれないだろうが。
本部内にいてと言われても、何処にいればいいのか。何をして過ごせばいいのか。
「分かりました」と頷きながらも、早速悩みができてしまった。
「……うう。リオンちゃんといれば良かったかも」
だが、すぐに彼らのもとに戻る気も起こらず、また、彼らの仕事を邪魔するわけにもいかない。
桜は適当に辺りを散策しよう、と食堂のある建物を出た。
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