第3話 退鬼師と神威


 寮の廊下を進もうとして、視界に入った一つ目の扉の前で足を止める。

 扉には「談話室」と書かれたくすんだ金色のプレートがついていた。一華が言っていたように、目的地はすぐ近くだった。

 中にどれほど人がいるのかは分からないが、耳を澄ましてみても声は聞こえてこない。声を遮るほど扉が厚いのか、それともいないのか。

 桜は震える手で控え目にノックをしてから、ドアの取っ手に手を掛けた。


「し、失礼しまーす……」


 見慣れぬ者が入ってもいいのかと、一抹の不安を抱えながら、恐る恐る扉を開ける。

 しかし、その不安も室内を見た瞬間に消し飛んだ。

 遙か昔の西洋貴族が住んでいそうな、落ちついた色合いだが気品溢れる内装と家具。床には深紅の絨毯が敷かれ、南向きの大きな窓からは食堂との間にある庭が見える。

 西側の壁には天井まで届く背の高い本棚があり、様々な厚みの本が収まっていた。その向かい側には、暖炉や観葉植物、熱帯魚が泳ぐ大きなアクアリウムがあった。

 また、数カ所に分けて配置されているのは、内装の雰囲気に合わせられたアンティーク調のソファーとテーブルだ。ソファーは三、四人が余裕で座れそうな大きな物から一人掛け用まである。

 唖然としながら入れば、柔らかな絨毯が足もとを包んだ。


「ファンタジー映画みたい……」


 利用者の姿がないこともあって、自然と感想が口から出る。

 座っておこう、とソファーに近づいた桜は、ふと、ソファーに置かれた数個のクッションの上に『何か』がいることに気づいた。


「ぬいぐるみ?」


 ふかふかとしたクッションの上にいたのは、白と灰色の長い毛の美しい猫だった。深い青の瞳は、真っ直ぐに前を向いたまま動かない。

 額には桃の花の紋章が小さく印されており、黎明にマスコットなどいただろうかと思いつつ猫に近づく。

 ぬいぐるみにしては作りが精巧だが、近年はリアルな人形も増えている。これもその一つなのかもしれない、と手を伸ばしたときだった。


『これはまた、随分と可愛らしい神威だのぅ』

「!?」


 近い場所から聞こえてきたのは、艶のあるおっとりとした女性の声だ。

 部屋には桜以外に人はおらず、音を発生させるような物も視界に入る範囲では見当たらない。

 きょろきょろと見回す桜を見てか、声の主――目の前の『ぬいぐるみ』は可笑しげに肩を揺らした。


『ほっほっほ。愉快じゃのぅ。これだから、初対面相手に「ぬいぐるみの振り」はやめられん』

「……ええっ!? ほっ、本物?」

『すまぬな。お主があまりにも好奇心に満ちた目をしておったからの。少しからかったのじゃ』

「猫にからかわれた……って、猫が喋ってる!?」


 まさか、猫にからかわれる日がくるとは思わなかった。

 だが、すぐにおかしい点に気づいて声を上げれば、猫は笑むように目を細めて伏せていた体を起こす。

 クッションの上に座り直すと、ゆったりとした口調のまま言葉を続けた。


『妾は「珊瑚さんご」。先ほど、柊矢と共におった“輩”の神威じゃ』

「あなたも神威なんですか!?」

『左様。同じ神威じゃ。よろしく頼むぞい』

「は、はい。瑞樹桜です。よろしくお願いします」


 年寄りめいた口調のせいか、つい敬語で話してしまう。

 萎縮する桜を見てか、珊瑚は『そう緊張せんでもよい。何なら、妾を愛でてもよいぞ?』と冗談っぽく柔らかく言った。

 桜は小さく笑みを零し、「じゃあ、お言葉に甘えて」と珊瑚を撫でようと手を伸ばす。

 が、またしても触れる直前でそれは叶わなかった。


「珊瑚。ここにいたのか」


 がちゃりと扉が開き、入ってきたのは先ほど柊矢と一緒にいた青年だ。寮内のためか、ケープは外して腕に掛けている。

 どうやら、神威である珊瑚を探していたらしい。

 歩み寄る青年に、珊瑚は少し顔を顰めて嫌そうに言う。


『“あそこ”は煤が舞っておるからの。避難じゃ』

「お前、汚れるの嫌いだしな……っと、悪い。柊矢の神威も一緒だったか」


 珊瑚の横にいる桜の姿は視界の隅に入っていたが、誰かまでは認識できていなかった。無意識とはいえ、無視をしたようにも感じられるため、青年は一言謝罪を入れた。

 すると、珊瑚はソファーの背に軽く飛び乗って彼に注意する。


『これ。お主、名乗っておらんだろう? 降神しておったとはいえ、外の様子は分かるのだぞ?』

「あー……菅谷すがや明日葉あすはだ。桜だっけ? よろしくな」

「はい。よろしくお願いします」


 明日葉は気まずそうに頭を掻いた後、桜に向き直って名乗る。桜の名前を知っているのは、柊矢が降神の際に言ったからだ。

 『よしよし。偉いぞ』と満足げに頷く珊瑚は、子供か孫を褒めているようにも見える。


「身体の具合はどうだ?」

「今のところは特に……大丈夫みたいです」


 見た目は柄の悪い青年に見えるが、実際は面倒見が良いのかもしれない。

 気遣う明日葉に、桜は自身の体を見てから首を振った。


「そうか。ならいいんだけど。珊瑚は逆に『体が昔のように軽くなった』って大喜びして、跳びすぎて怪我し、ぶっ!?」

『顔に虫がついておったぞ』


 突然、珊瑚がジャンプをしたかと思いきや、素早い動きで明日葉の顔に前足の一撃を入れた。所謂「猫パンチ」だ。

 華麗にソファーに着地した珊瑚は、涼しい顔をしている。


「こ、このクソ猫……!」

『誰か来たぞ』


 殴られた顔を押さえて怒る明日葉だが、気にも止めない珊瑚は扉の方を見て耳を立てた。

 すると、扉が再び開かれ、入ってきたのは初めて見る青年と柊矢だった。

 青年は二十代後半頃に見え、精悍な顔立ちは女性からの人気が高そうだ。体格は柊矢や明日葉よりもややがっしりしている。

 桜を視界に入れた彼は、柊矢に「彼女が?」と何かを確認し、頷いたのを見てから歩み寄ってきた。


「初めまして。俺は久谷くたに玲央れお。第一部隊……この柊矢と明日葉も所属する部隊の隊長を務めている」

「は、初めまして。瑞樹桜です」


 爽やかな笑顔を浮かべて片手を差し出してきた玲央に、桜も緊張しながら挨拶をして握手を交わす。

 第一部隊は、退鬼師の中でもトップクラスの部隊だ。数の多い戦いの際には、最前線に立つことも多いと聞く。


「一華さんから事情は聞いたけれど、大変だったね。困ったことがあれば、また相談に乗るよ」

「ありがとうございます」

「隊長ー。人の神威を誑かさないでくれるー?」

「そんなつもりはないんだけどなぁ……」


 拗ねた口調の柊矢に、玲央は苦笑を浮かべて桜から距離を取った。

 珊瑚も、『玲央は無意識でやるから、なお質が悪いのだ』と呆れた様子を見せている。

 すると、玲央は誤魔化すように咳払いを一つしてから話を変えた。


「桜君の神威登録と戸籍の手続きをするから、一緒に管理課に向かおうか。柊矢も」

「仕方ないなぁ……」


 やはり、柊矢は面倒くさそうだったが、上司であるはずの玲央が注意をしない辺り、これが彼のデフォルトなのだろう。もしくは、諦めているかだが。

 明日葉と珊瑚とは別れ、桜は玲央と柊矢の後に続いて黎明の本館に戻る。

 やって来たのは、先ほど一華と訪れた一階の管理課だ。対応をしてくれたのはまた別の女性だったが。

 一華が話を通している上、隊長である玲央がいたこともあり、登録はスムーズに進んだ。

 桜がしたことは、書類に名前と生年月日、住んでいた施設の住所を書き、部屋の片隅で指先からの採血くらいだった。

 針で刺した箇所から膨れ上がった赤い点を見て、神威となっても人間と同じ色の血であることに内心で安堵した。


「採血については、君自身の霊力の簡易的な測定を兼ねているんだ。神威となって異常はないか、とかもね」

「へぇ……」


 まだ知識の浅い桜にとって、この採血がどういった意味を持つのかは分かりかねた。だが、自然物質の神威とは扱いが違うのだということははっきりしている。

 同じく採血を終えた柊矢は、大きく欠伸をしてから言った。


「めんどくさい手続きは、これで一旦おしまい。はい、部屋に帰ろうか」

「部屋?」

「ごめんね、桜君。本当なら個室を用意したかったんだけど、何せ急だったから……」


 部屋とは何処のことか。一瞬、先ほどの談話室が過ぎった桜だったが、困ったように笑みを浮かべる玲央を見る限り、また別の場所のようだ。

 個室を用意したかった、と聞き、嫌な予感がした。


「いいんじゃない? 『同室』でも。退鬼師ならともかく、神威は基本的に退鬼師の側にいないといけないんだし」

「えっと、それは……ちなみに、どういう意味の同室ですか?」

「普段、使ってもらう部屋が同じ……ってことかな」


 玲央は桜の反応を伺いながら言った。

 日常で使う部屋とは、つまり、自室のことだ。施設にいたときも、個人用ではないがあったので、誰かと一緒なのは抵抗がない。ただし、同性であればの話だが。

 桜は、もう一度柊矢を見る。

 見た目は桜と近いかやや下くらいの年齢には見えるが、何よりも『初対面』の異性だ。


「……ええ!?」


 貞操の危機を覚えるほどではないが、不安が一気に押し寄せた。




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