「マザー・ヴンダーの代理人」

「…あっと、すまない。最近物忘れが多くてね。

 名前を教えてくれないかね。」


駅前のタクシー乗りば。


見覚えのある老人から

そう告げられ、スミ子は戸惑う。


…この人、もしかして私のことを覚えていない?


しかしこの老人、先日会った時には有無を言わせず

スミ子の手をとって本部に開いた空間に飛び込んでいった人だ。


これで覚えていないと言われても、

こちらが困るのだが…


「えっと、スミ子です。溝口スミ子。」


しぶしぶ自分の名前を言う。


すると、老人はしばし目をパチクリさせた後、

合点がいったというような顔をした。


「ああ、マザー・ヴンダーの言っていた女性とは君のことか。

 そうか、そうか。それなら君と共に行かねばならないな。」


スミ子はそう言われて

ますます目が点になる。


どうしてここでマザー・ヴンダーの

名前が出るのだろうか。


てっきり空間委員会の人間だと思っていたのだが、

どうも違うらしい。


そして、老人はそのままタクシーに乗り込み、

スミ子に手招きをする。


「ほら、君も早く乗って。

 私はスケジュール通りに動かねばならないんだ。

 そこにいるお兄さんも一緒でいいから。」


そこでようやく、

スミ子はユウキが隣にいることに気がついた。


みれば店から走ってきたらしく、

半ば息を切らしつつ老人に声をかける。


「…悪いけど、こっちにはこっちの都合があってさ。

 山口雑貨店ってとこに行かなきゃいけないんだよね。

 だから、今回この人を連れて行くのは諦めてくれないかな。」


すると老人は「ふむふむ」とうなずき、

先ほどと同じように手招きする。


「なら、何も問題は無い。行くところは君らと一緒だ。

 私は君らと同行するようにマザー・ヴンダーから

 言われているからね。お金はこちらで出そう。」


その言葉に対し、

ユウキはまだ何か言いたそうにモゴモゴする。


それに、老人はこう続けた。


「未来の牛に関することなら私にも思うところがある。

 店まで行けば君達の役にも立てるだろう。」


その言葉にスミ子もユウキも顔を見合わせ、

タクシーに乗り込むことにした。


…山口雑貨店に行くのに、

タクシー代はそれほどかからなかった。


と言うより、タクシーで行くのが勿体無いほど

駅裏のすぐ近くにその店はあった。


「いらっしゃいませー。」


店員の女性はメガネをかけた丸顔で、

学生然としたその風貌にはどこか愛嬌があった。


店内は洋風で雑貨屋というだけあって

アンティークな椅子や小物が所狭しと並べられ、

スミ子もこのような用事でなければ、

しばらく長居したいくらいの雰囲気を持った良い店だった。


老人はスミ子たちとは距離を置くように離れ、

どこか面白そうに店内を眺めている。


ユウキはそんな動かない老人の様子に溜息をつくと

自らレジまで進み店長に用事があると告げた。


店員は了承し、店の奥へと声をかける。


「店長ー、お客さんでーす。」


女性の声に、奥から出てきたのは

中年に差し掛かろうという男性だった。


「ん、鴨居ちゃんありがとね。

 それで、何の御用事ですかね。」


そして、出てきた雑貨屋の店主は

老人の姿を見つけると顔をほころばせた。


「あれ、佐藤さんところのお爺ちゃんじゃないですか。

 どうされたんですか何か面白いものでも仕入れましたか?」


すると、老人は首をゆるりと振り、

雑貨屋の二階を指差して言った。


「いや、あんたのお爺さんに貸していたものがあってね、

 二階の倉庫にある段ボールを持ってきてくれるかい?

 未来の牛とマーカーで書いてある。

 大丈夫、すぐに見つかるようなものだよ。」


「ああ、はいはい。わかりました。」


そう言うと店長は疑問を持った様子もなく二階へと行き、

両手で抱えられるほどの段ボールをカウンターの上に置いた。


「また、佐藤さんのお使いかい。

 うちの爺さんも昔からひいきにしてもらっていたけど、

 総合病院に入ってから具合はどうだい?」


それに対し、老人は首をふる。


「ダメだねえ悪くなる一方だ。私もずいぶん年だし先は長くないね。

 …そうそう。いずれ私の孫がここにバイトに来るかもしれない。

 大学近くのマンションに住む予定でな、可愛がってくれないかい?」


「はは、お爺ちゃんの孫だったら

 随分しっかりした子でしょうね。

 いいですよ、引き受けましょう。」


そんな世間話のような会話をしつつ、

老人はユウキに目で合図をしてダンボール箱を

持つように指示を出す。


店長はその様子にも特に不信感を抱く様子はなく、

「はー、今日はお手伝いとしてこの二人が来てくれたんですね。」

と言ってスミ子とユウキにも挨拶し丁寧に外まで送り出してくれた。


そして、老人は外へと出ると

最後に店長にこう言った。


「ありがとうな。

 これからも亡くなった祖父さんと

 親父さんの店を大事にするんだよ。」


「ええ、大事にしますとも。

 ありがとうございます。」


そして、老人は店を出ると通りざまにタクシーを呼び、

旧市役所へと向かうように運転手に言った。


「…やれやれ、時間は飛ぶように過ぎていく。

 年寄りにとっては時間のやりくりは文字通り死活問題でね、

 いかに効率良くしていくかが鍵なんだよ。」


そうして、タクシーに揺られる老人に

スミ子は恐るおそる聞く。


「あの、あなたはマザー・ヴンダーと

 どのような関係にあるんですか?」


すると、老人はあっけらかんとこう答えた。


「ああ、私かい?マザー・ヴンダーの使いだね。

 もうかれこれ50年以上彼女の手伝いをしている。

 いわゆる魔女の代理人という奴だよ…それも生身の人間のね。」

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