第4章「ループ」

「記憶補正」

慌ただしい一日の翌日。


ビジネスホテルの部屋で目を覚ましたスミ子は

体の重さを感じながらのろのろと起きだす。


時計を見れば朝の8時で枕元に置いたスマホには

ユウキから朝食の誘いのメールが来ていた。


一瞬、何のことかわからず躊躇するも、

このホテルは昨晩ユウキが決めたところで、

リーズナブルな上に朝食が美味しいホテルだと

嬉しそうに言っていたことを思い出す。


思えば、このスマホもユウキとホテルに

宿泊する前に手に入れたものだった。


スミ子の持っていたガラケーは年季の入った旧式であり、

まともにネットも繋げないのでヤキモキしたユウキが

近くの携帯ショップに行って購入したものだ。


…そうだ、一週間ほどのあいだ、

ユウキと行動を共にしなければいけないんだ。

空間に引き込まれやすい体質になっているから。


スミ子はフラフラと起き上がると、

寝巻きにしていたバスローブから昨日の服に着替える。


…なんでも一度、うろの中で行動すれば

スミ子と手を繋がなくても入れるそうで、

ユウキとスミ子は別の部屋で一泊をしていた。


ユウキいわく、精神にできる空間の虚は、

リラックスしている時には出現しないものらしい。


「師匠の家では個室にすることで余計な緊張感をなくしてたよ。

 それから、徐々にカウンセリングとリハビリを繰り返して

 日常生活に戻れるようにしていたから、

 本当だったらもっと長期的にしたほうがいいんだけどね。」


だが、そもそも空間に一般人が入り込み、

虚に落ちるケースはほとんど無いとも言っていた。


「常人が空間に落ちること自体稀だし、

 そうなる前に死んでる確率の方が高いんだよ。」


さらっと怖いことを言われた気もするが、

スミ子がそのケースなのだから仕方がない。


のろのろと昨日の服に着替えて部屋から出たスミ子に、

廊下でスマホを見ていたユウキは別段怒ることもなく挨拶をする。


「よ、おはよう。

 とりあえず飯を食いに行こうか。」


ビジネスホテルの一階にあるカフェには、

朝食をとるサラリーマンや旅行客がまばらにいる。


みんなピシッとしたスーツやオシャレな服で、

昨日と同じシャツとズボン姿のスミ子は

どこか居心地の悪さを感じた。


「…どう、具合のほどは。」


運ばれてきた目玉焼きに醤油を垂らしつつ、

ユウキはそれとなく聞いてくる。


スミ子はもそもそとフレンチトーストをかじりながら、

「まあ、そこそこ」と返事をする。


正直、腰や首筋がぼんやりと痛いのはいつものことなので、

あえて言うまでもないと考えての返答だ。


「曽根崎さんの話だと10時半までに来てくれればいいそうだから、

 早めにホテルの予約をとって、もっと動きやすい服とか買っておく?

 せっかくもらったカードもあるし…」


と、そこまで言ったところでスミ子は口を出す。


「それなんだけど。

 少し荷物を取りにマンションに戻ってもいい?

 すでに払っちゃったホテル代やスマホはともかく、

 今後カードを使うのは最小限で行きたいの。」


それに対し、ユウキは不満そうに口を尖らせた。


「えー、貧乏性だなあ。

 せっかく曽根崎カードがあるんだから、

 もっと服とか買い込めばいいじゃん?」


スミ子も反論する。


「カードって最終的に買ったものがわかるでしょ。

 プライベートなものなんて早々には買えないわよ。

 あとカードに変な名称をつけない。」


そして10分ほどもめた後、

結局、店が開く時間にはまだ早いという理由でユウキが折れ、

二人はバスでマンションに向かうこととなった。


半日ぶりのマンションを見ると、

すでに立ち入り禁止のテープは撤去され、

車一台置かれていない駐車場は殺風景に見えた。


「…でも、マンションにも車の持ち主にも補償は出るし

 本部は盗難ということで処理するらしいぜ。

 まあ、現場に人がいたとしても数日後には

 何があったか忘れているから、大事にはならないさ。」


その言葉にスミ子は首を傾げ、

ユウキは指で軽く自分の頭を叩く。


「空間自体に『記憶補正』って効果があってさ、

 時間が経つと別の理由付けが行われて記憶からはじき出されてしまうんだ。

 …テレビや新聞なんかで部屋や道路に突然異空間につながる穴が開いた、

 なんてニュース人生で一度として見たことないだろ?」


スミ子はそれにうなずく。


確かに、ここのところテレビや新聞は見ていなかったが、

ユウキから空間のことを教えてもらうまでこの30年近く、

そんな現象があること自体知らなかった。


「でも、被害は出ているし、それを保証する組織も必要でね。

 そういうところの処理をするのも空間委員会の仕事なんだよね。

 早い話、もっともらしい言い分を並べて、

 国から出たお金を出すだけなんだけど。」


そんな話を聞きながら、

スミ子はエレベーターに乗り込みボタンを押す。


…となると、この記憶もいずれは消えるものなのか。


スミ子は上階へと変わる階数表示を

ぼんやり眺めながら考える。


記憶補正というものがあるのならば、

おそらくこの事態がひと段落した後に

スミ子の記憶から空間のことが消えるのだろう。


スミ子はそのことに対し、

特に抵抗はなかった。


ただでさえ日常に疲れていたのだ。

それ以上の悩みを抱え込む必要はない。


しかし、本当にそれでいいのか?

鳥を追わなくていいのか?


自分の中でそんな声が聞こえる。


でも、会社が無くなってしまった現状では、

今後の生活のことを考えるだけで手いっぱいだ。


そこに余裕はないし、

現実を見ることが大事なこともスミ子はわかっていた。


そして、エレベーターが止まると、

スミ子は自分の部屋へと向かい鍵を開ける。


…飾り気のない自分の部屋。


簡素なワンルーム。

物のない部屋。


スミ子はハンガーラックの下に置いていた

大きなボストンバックに数日分の服を詰め、

どうせだからと着ていた服も着替える。


動きやすいシンプルな灰色のパンツに半袖の白シャツ、

日暮れには寒いかもしれないので紺色の上着も着る。


そして、ベッドの下の収納棚に

トラベルグッズを入れたことを思い出し、

右の引き出しを開けた時…スミ子は気付いた。

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