「気づき」

「…まずいですね。」


スミ子の話を聞くと、心療内科の医師は頭を振る。


「眠れないのもそうですし、頭痛も動悸も止まらないと。

 …とりあえず違う薬を出して一週間後に様子を見てみましょう。」


そうして、パソコンに何かを打ち込んでから、

医師は顔を上げる。


「でも、もし会社に行けなくなったら、いつでも連絡をください。

 話を聞いていると、おそらく薬だけの問題でもないようですし。

 電話をいただいたら、こちらで、用意をしておきますから。」


何を?退職用の書類を?


そんなことを考えながら、

スミ子は薬局でもらった薬を持って歩き出す。


正直、未だに心臓の鼓動は速いまま、

耳には甲高い音が鳴り響き、気分はグラグラとする。


カサリとなった袋には睡眠薬と心を落ち着ける薬が入っている。


だが、これを飲んでも動悸や意識のぐらつきが

全くない日はなかった。


明日には会社に行かねばならない。

気は進まないけど、下手な欠勤は自身の首を絞めるだけだ。


一度でも休んだら取り返しがつかなくなる気がしていた。

だらだらと、そのまま休んでしまう気がした。


だから休まない。だから休めない。

ぐらつく、気分が悪い…でも、休んではいけない。


「…大丈夫、薬を飲めば大丈夫だから…。」


かすれた声でそう言いながら、

スミ子はエレベーターで4階へと上っていく。


一刻も早く自分の部屋へ行き、休みたい。


でも、家に帰った途端に動けなくなり、

玄関先でぐったりと座り込むのが常だ。


それでも、動かなければならない。

動こうとしなければならない。


そうして、エレベーターから降り、

ゆらゆらと自分の部屋の前へ歩いたところで気がつく。


…あれ。隣に新しい人が入ったんだ。


みれば、隣のドアノブに下がっていた入居者用の

電気・ガス・水道の冊子が入った袋がなくなっている。


…まあ、それでどうということはないのだけれど…。


そう思いながら、スミ子は自分の部屋の鍵を

開けるとよろりと中へと入る。


簡素なワンルームの部屋。


下が収納スペースになっているベッドと、

ちゃぶ台と、小さな本棚が一つきり。


テレビやパソコンの類は持っていない。

お金がないので買っていない。


玄関に立てかけられたハンガーラックに

脱いだ服をかければ良いのだろうが、

そんな気力は起こらない。


重い頭を抱えつつ、ずるずると服を脱ぎだすと、

そのままベッドへと倒れ込む。


気分が悪い。動きたくない。


シャツとパンツのラフな姿。

玄関には脱いだ服がそのままだ。


みっともないと頭では思う。

しかし、動けない。気分が悪い。


「なんで、動けないんだろう…。」


絞り出したような声が口から漏れる。


本当なら、しなければならないことは山ほどあるのに。

やらなければならないことは山ほどあるのに。


体が動かない。

動かすことができない。


だるくて、重くて、息が苦しくて…


そうして、息を吸いこもうとした時、

スミ子の頬を風が撫でた。


「…?」


窓の類は開けていない。

玄関の鍵も閉めたはずだ。

なのに、風が吹き込んでくる。


これは一体…?


スミ子は顔を上げると重い上半身をゆるゆると起こし

…そして、気づく。


風は、穴から出ていた。

ベッド側の壁に開いた、10センチはあろうかという穴。


同心円状の綺麗な穴。

中は暗く、奥がよく見えない。

そこから風が漏れていた。


え?なにこれ。


スミ子は無意識的に穴に手を伸ばす。

ざらりとした感触。それは壁のもの。

穴の入り口は壁の素材やウレタンが覗いていた。


なんで、なんで穴が開いているの?


あまりのわけのわからなさに、

スミ子は壁に手のひらを押し付ける。


突然の穴。崩れたでもなく不意に開いた穴。

でも、開いた原因がわからない。


今まで普通に暮らしていたはずだ。

特に壁を蹴ったとか。押し続けたとか。

そんなことは全くしていない。


…マンションの管理人にこのことを話すべきか。

いや、ダメだ。


そこまで考えたところで

ドクンと心臓がなる。


…もし話をしたら私が壊したと思われる。

弁償を求められる。


スミ子の顔から汗が噴き出す。


こんな穴、いくら払えばいいのか。

いや、そもそも隣に迷惑をかけていないのか。

いや、こんな大穴が開いているのだ。


下手をすれば向こうの壁にもヒビぐらい入っているかもしれない。

そうしたらどうしよう。向こうの分まで払わねば。


いくら払えばいい。

どうしたらいい。


止まらない汗、バクバクという心臓。


考えはまとまらず、スミ子は壁に手を添え、

呼吸のできない苦しさにクラクラする。


なんで、なんでこんなことばっかり、

どうして、どうして…私にばっかり…。


その時、反射的にスミ子の腕が動いた。

なぜかはわからない。無意識的な行動。

あっという間の一瞬。


そう、スミ子の手は壁から穴へとスライドし…。


…あれ?ない。


次の瞬間、スミ子は目をパチクリとさせる。


…穴が、消えていた。

そこにあるのは綺麗なただの白い壁。

凹みも、ヒビも、何一つない。


え?え?


そうして慌てるスミ子の耳に

ふいにチャイムの音が鳴り響いた。


「…あ…はい…。」


とっさに返事をし、ベッドから降りようとする。

気分はまだグラグラするが、人を待たせたくはない。


そうして、まだバクバクする心臓を抑えながら、

スミ子はチェーンのかかったドアを開ける。


「…はい、どちらさま…ですか?」


かすれる声。

でも、かろうじて聞き取れる声をスミ子は必死に出す。


すると、ドアの向こうから若い男の顔が覗いた。

少し背の低い青年。十代とも二十代とも言える顔。

どことなくよそを向きながら、その顔が口を開ける。


「ああ、僕、この隣に越してきた者なんですけど、

 よろしくお願いします。これ、つまらないものですが。」


そう言って渡してきたのは綺麗に個包装されたタオルであり、

引越し挨拶と一目でわかるそれに、スミ子は反射的に頭を下げて受け取った。


「…どうも、ご丁寧に…ありがとうございます。」


そうして顔を上げると、青年は

まだ何か言いたそうにスミ子をチラチラと見ている。


「…なんでしょうか?」


すると、青年は顔をそらしながら言葉を続ける。


「…あの、せめて何か羽織られた方がいいんじゃないですか?」


その瞬間、スミ子の顔が真っ赤になった。


そうだ、なんてこと。

自分はさっき服を脱いでいたじゃないか。

今は下着だけ、下着姿で隣人に応対している…!


「すみません、すみません」とスミ子は言いながら

 慌ててドアを引っ張り、バタンと閉める。


「すみません、慌てていたもので…!」


そうして、顔を真っ赤にしてドアにうずくまるスミ子に

扉の向こうで苦笑するような青年の声が聞こえた。


「いえ、こちらこそ突然押しかけてすみませんでした。

 これで、失礼します。」


そうして、話は終わったかのように見えた。

青年の立ち去ろうとする足音が聞こえる。


…青年が最後の言葉をかけるまでは。


「ああ、このマンションに住んでいるのなら、

 『穴』には気をつけたほうがいいですよ。

 開きやすい状態になっているようですから…。


ドクンとスミ子の心臓が高鳴った。

それは、先ほどの羞恥心からくるものではない。


もっと身近な…そう、つい先ほど開けてしまった「穴」。

それをスミ子は思い出していた。

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