胡乱な街
化野生姜
第1章「存在」
「穴」
会社のロッカールーム。
その片隅でスミ子はぐったりと壁に寄りかかっていた。
ものが、ダブって見える。
頭が痛い。意識がぐらつく。動悸がひどい。
…パニック障害の再発ですね。
先日行った、心療内科での医師の言葉を思い出す。
向こうのロッカーでボソボソとした話し声が耳につく。
…おかしいと思ってたのよ。
…やっぱり?あの子仕事できないでしょ?できないよね。
…もう、新人って歳でもないのにさ。
別の会社から来た癖に、まるで経験もないよね。
…ないない、何やらせても人並み以下だし。
…前のインテリアの会社で、何勉強してきたんだろうね?
…遊んでいたんじゃない?出来、悪かったんでしょ。
ぜえ、ぜえ、と自分の喉から喘ぎ息が漏れてくる。
この職場につとめて半年。
自身が手がけていた企画が失敗してからというもの、
スミ子の周りの視線は冷たくなる一方だった。
前の職場は、ひどいパワハラによって辞めていた。
新人で入ってから半年。
夜勤や朝帰りをしてまで頑張ったにもかかわらず、
できないやつと罵られ、仕事を取り上げられ、机を蹴られ、
辞めるようにと強制されて退職した職場。
その頃から、意識はぐらつくようになっていた。
歩くときに、周りがふわふわと感じられるようになっていた。
その時、医者に「パニック障害」だと診断された。
投薬による治療が始まった。
次第に症状は緩和し、薬も減っていた。
…なのに、この半年で
あっという間に再発した。
いや、ますますひどくなった。
必死に就活を繰り返し、
仕事に励んでのこの状態。
重い頭痛とグラグラする意識。
吐き気とだるさ。
具合がどんどん悪くなり、段取りが悪くなり、
内容がどんどん簡素なものへと変わっていき、
とうとう仕事を回してもらえなくなった。
仕事が欲しいと上司に頼んでも、
自分で仕事を見つけろと言われて終わる。
同僚には給湯室でなじられ、
仕事が向いていないと罵られたこともあった。
…居場所が、どんどんなくなっていく。
「…難しい状況ですね。
このまま仕事、続けられますか?」
医者の言葉。
辞めるかどうかを勧めることば。
だが、それは無理な話だ。
貯金も少ないため次の引っ越しはおろか、
ここで辞めてしまえば生活費すら消えてしまう。
…お前はどこへ行ったって同じ目に遭うんだよ。
前の職場、先輩の罵倒が耳につく。
…性根がまず間違っている。給料をもらえる方がおかしい。
次の職場に行こうとしても、きっと書類ではねられるぞ…。
大学で取った資格を活かしたいと考えた上での
インテリアコーディネーターの仕事。
だが、その仕事にありつくまで短期間のバイトや
臨時職を転々としていたのが裏目に出た。
気がつけば、もう30に手が届く歳になっていた。
今更別の職場に行こうとも、
職場を短期間で出ていることには変わりはない。
職場に長く居られない人間を雇うほど、
企業はお人よしではない。
ましてや、こんな症状を抱えていれば…。
息が、できない。
気分が悪い。
いつしか、声も出せなくなっていた。
胸に何かがつかえ、声が枯れ、息が吸いづらくなった。
頬の肉が重くなり表情が出せなくなった。
そのため、周りから何を考えているか
わからなくなったと言われた。
人と会話ができなくなった。
コミュニュケーションが取れなくなった。
どうしていいか分からなくなった。
頬を涙が伝っていく。
…泣いてしまうのは気持ちの問題だ。
病気なのはあなたが弱いせいだ。
最近言われた同僚の言葉。
彼女と話したのは三日前のことだったか…。
ヘルメットでも被ったかのように重くなる頭。
荒くなる呼吸。
スミ子はそれをこらえようとする。
向こうのロッカーにいる同僚に、
必死に聞こえないよう呼吸を正そうとする。
でも、呼吸の仕方がわからない。
どうすればいいのか考えられない。
周囲の景色はどんどんぼやけ、不鮮明になっていく。
ロッカーも、壁も、床も、揺らぎ、ぼやけ…
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ…
ひどい心音。
ぐらつく世界。
その時、気づく。
床が泡立っていることに。
ボコボコと、まるで沸騰したヤカンの中を見るように
床が、壁が、泡立ち、穴が開き、広がっていき…
『もう少し、もう少し待ちなさい。
あと少しで状況が変わるから…』
不意に、そんな声を聞いた気がした。
どこから。
穴から。
スミ子はかがむと、目の前にできた
拳大ほどの穴を見つめる。
それは、先ほどまではなかったはずの暗い穴。
どこまで繋がっているかもわからない穴。
…何、これ。
呼吸は未だにしづらいが、スミ子は好奇心に負け、
穴を覗き込もうとする。
その時、スミ子は気がついた。
穴の奥に何かがいることに。
シワの寄った皮膚と目玉が覗いていることに。
「ひっ」
思わず声をあげ、スミ子は後ろに飛び退いた。
その途端、穴は外側から塗りつぶされるかの
ように綺麗に隙間なく、ふさがった。
バタンッ
それは、同僚たちがロッカールームを出た音だった。
ハッとして床をみるも、
床はもはや平らなただの床と化している。
スミ子はしばらく呆然としていたが、
そそくさと身なりを整え、ロッカールームを後にする。
先ほど見たものが、何なのか。
それは、今のスミ子には理解できないものだった…。
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